日向の国むら立つ山のひと山に住む母恋し秋晴の日や

若山牧水『別離』(1910年)

*日向に「ひうが」、国に「くに」、秋晴に「あきばれ」のルビ。

 

この「日々のクオリア」、前田康子さんと交互に週三回、これがなかなかにきつい。時に取り上げる歌に窮することがある。そうした時に参考にする本がいくつかあるのだが、もっとも頼りにしているのが、大西巨人『春秋の花』(光文社文庫)である。

大西巨人が、短歌(和歌)を中心にした日本語短詩型詩文学好きであることは、あの大部の『神聖喜劇』を少しでも覗いて見れば分かることだ。とりわけ前川佐美雄、斎藤史が好みであることも『神聖喜劇』に承知していたから、この『春秋の花』という詩歌文、とりわけ短歌(和歌)に重いアンソロジーは、何の不思議もなかった。

その大西巨人が、2014年、なんと今年の3月11日深夜――正確には12日0:30に97歳で亡くなった。これには少しばかり驚いた。年齢的には、十分生きたように思え、仕事も十二分以上の遺産を残した。これから本格的な大西巨人研究が開始されることになるだろうが、その大西による詞華集を少なからず参照してこの一首鑑賞をこしらえていた私には、符牒を合せたような訃報に驚いた。好きに使えと言うことか、と勝手に理解して、ご覧のように度々『春秋の花』から歌を選んだ。

しかし、今日選んだのは『春秋の花』からではない。大西歿後、1996年に出された『大西巨人文選』全4冊を引き継いでそれ以後の批評や対話を集めた『日本人論争 大西巨人回想』(左右社)に掲載されている「若山牧水のうた」(2009年)に拠る。

この『日本人論争』は、大西の長男赤人が編集の中心にかかわっている。赤人(あかひと)は、生まれながらに血友病を患っていた。それが後に血友病性障碍者であることを理由に埼玉県立浦和高等学校への入学が不当に拒否されるという事件につながる。赤人とほぼ同世代の私には、この問題は大きな関心事であり、大西巨人の存在を知ったのも、その入学拒否をめぐる報道においてであった。

話が逸れた。若山牧水の歌である。「若山牧水のうた」は、ごくごく短い文章ながら自分の軍歴と牧水の歌とのかかわりが述べられている。

大西は、1942(昭和17)年1月11日、教育召集で対馬要塞重砲兵聯隊に入隊する(本文には1941年とあるが、文脈や巻末の詳細年譜を参照すれば誤記だろう)。教育召集は通常3カ月、大西もそのまま臨時招集され、1945年10月上旬の復員帰郷まで約4年間、一兵卒として対馬要塞で過ごすことになる。配属されたのは、南地区第三大隊第九中隊(大崎山砲台)であったが、演練は鶏知(けち)町の聯隊本部営庭ないし高浜演習砲台で行われた。

教育応召期間の三八式野砲(口径7.5センチ)――別の場所で大西は、この野砲の姿形や砲兵の操作にセクシャルなものを感ずると愛着を語る。その演練のために聯隊本部からその野砲を輓曳(ばんえい)し、高浜演習砲台の到り、沖合(日本海の西の果て)を通過する汽船を目標に海上射撃演習を行なった。そこに牧水短歌が登場する。

 

春白昼(はるまひる)ここの港によりもせず岬を過ぎて行く船のあり  『別離』

 

実際には伊豆半島の旅における作だったようだ。それを海上を航海する汽船を模擬敵船として射撃訓練を行なうときに、大西は牧水のこの歌を思い浮かべたと述べる。

さらに高浜演習砲台からの帰路、高浜港を右手に見下ろすことになる。そこでまた牧水歌を思い起こす。

 

風凪ぎぬ夕陽(せきよう)赤き湾内の方すみにゐて帆をおろす船    『別離』

 

これもまた同時期の作であるようだが、伊豆半島の小さな漁港の夕景である。とても戦争とはかかわりの薄い情景であることにこの空想の意味があるのだろう。

そして1944年秋を過ぎて戦局は刻々にあやしくなる。対馬でも連合国軍〔アメリカ軍〕の上陸への対応が問題になる。対馬は、海からすぐに深い山地がそびえる地形だ。敵の襲来に対してはそのそれぞれの山に逃げ入ることを考えた。その場合、あちらの山とこちらの山とお互いに連絡を取るには手旗信号によらねばならない。そのために大西たちは「毎夕食後三十分間、適当な相手と組んで手旗信号を演習した。私の相手は、同年兵の江口兵長であった。」その時に大西が手旗信号で送ったのが、今日のこの牧水の母恋の歌であり、

 

ぬれ衣(ぎぬ)のなき名をひとにうたはれて美しう居るうら寂(さび)しさよ 『別離』

 

であった。こちらは離れ離れになった恋人を思う歌である。たしかに「むら立つ山のひと山」は、さながら対馬の山中に置かれた兵の状態を暗示するし、離別している恋人を思うのも、この状況と重なるだろうが、手旗信号の演習である。まじめなのかふざけているのか、いかにも大西巨人らしいのだろう。

江口兵長も、その大西の手旗信号に応じて、やはり牧水の歌で返して来た。

 

寄り来りうすれて消ゆる水無月(みなつき)の雲たえまなし富士の山辺に  『山桜の歌』

 

かつて大西が、江口兵長に教えた歌だと言う。

どこかとぼけたような味のあるエピソードだが、大西巨人の脳内アーカイブスにはどれだけの短歌(和歌)がしまい込まれていたのだろ。少なくとも『神聖喜劇』の主人公東堂太郎陸軍二等兵と同等の記憶力の持ち主であったようだ。

それにしても、この複雑な牧水歌を手旗信号にするとどんなパフォーマンスになるのだろうか、一度でいいから実演を見たいものである。