聞きわびぬはつきながつき長き夜の月のよさむにころもうつこゑ

後醍醐天皇『新葉和歌集』(1381年)

 

さらに大西巨人氏の『春秋の花』をお借りしよう。

大西巨人は、映画や短詩形文学、いわゆる短歌とか俳句に関しては、話し出すと「とめどなく」なるとその晩年に語っている。映画、短歌、俳句に愛着があり、それぞれ一家言を持っていた。短歌は、実際に作っていた時期がある(そのことは別の日に紹介するつもりだ)が、短歌に興味を持ちはじめて、最初に記憶した歌が、この一首であったという。

後醍醐天皇の一首であるが、大西巨人は言う。「普通の子供はそういうことをしない時期から物を読む」、「その頃、アンソロジーのようなものがあって、その中からそれが記憶に残った。」「形式的な」歌だけど「作者が南北朝で苦労した」、「そこに生きたものがある、滲み出てきた作」である。それが「私の心を打った」と語っている。

そして驚くのは、この歌にこうした感情の動きを覚えたのが、「……数え年五つくらいの時」だったというのだ。数えで5歳、つまり満で言えば4~5歳である。朝ドラで話題になった村岡花子が7歳で辞世の歌を作ったことに驚いたが、こうした才能が早期に開花することは決してないことではないということだろうか。

「南北朝で苦労した」後醍醐天皇(1288~1339年)は、建武中興の中心人物であり、隠岐に配流されたり、後に足利尊氏との対立から吉野に南朝を立てる悲劇の天皇である。つまり4~5歳の大西少年は、こうした事情を理解した上で、この歌に共感を持ったということになる。凡愚の私は、当然ながら驚かざるをえない。

この7月に刊行された『日本人論争 大西巨人回想』(左右社)に収録された「秋冬の実 大西巨人短歌自註」――長男赤人の質問に応じたインタビューに、晩年の大西巨人が語ったのが以上のようなことであった。早熟、記憶魔……こんな言葉が浮かんでくる。

そして『春秋の花』にも、当然ながらこの歌を揚げている。『新葉和歌集』(1381年)は、後醍醐天皇の皇子、宗良親王撰の南朝方の準勅撰集である。

この歌には「元弘三(1333)年九月十三夜、三首の歌講ぜられしとき、月前擣衣といふことを」という前書きがある。「擣」は「つく」「うつ」、つまり月の前で衣を打つという題詠に他ならない。

大西は、題詠であることについて、「その体(すがた)が端麗ながらも何か型どおり気味である所以(ゆえん)を私に合点(がてん)せしめる」と言い、「しかし作者が激動期の中心人物として積極的に生きただけに、その悲劇的な心状が籠っていて、一首の調べを丈高いものにしている」と鋭い判断を示す。さすがに五歳から読み続けてきただけの鑑賞であろう。

さらに北宋の詩人梅堯臣(ばいぎょうしん)の詩を称揚して欧陽修(おうようしゅう)が歌った「梅(バイ)ノ詩、物ヲ詠ジテ情(ココロ)ヲ隠サズ」を引用して、同じような特色が、この一首にもあると述べる。

題詠であるからか、端麗ながらも、どこか型どおりと思わせる印象があるものの、積極的な生き方を貫いた人物であるからこその悲劇的心状が調べを丈高いものにしている。このように大西巨人は読み解いた。作者も、満足であろう評だ。ちなみに塚本邦雄も『清唱千首』(冨山房百科文庫)にこの一首を採りあげて「太々とした潔い調べを伝へてゐる」と評している。塚本のこの和歌アンソロジーも困った時の参考書の一冊である。

旧暦八月、九月、今年は閏九月が入るらしいので、まだ九月(ながつき)の内であろう。この歌の鑑賞にはふさわしい時期ではなかろうか。

秋の夜長に衣を打つ砧の音、それを物寂しく聞くのだが、作者はままならぬ世を歎きつつ,しかし反攻の心はしずまってはいないのだ。大西巨人「小学校低学年時代以来のわが愛誦歌である」という。大西の人柄の一端が覗けそうであり、私は親しき思いを持つのである。