家族の背それぞれ違へど丁度よい高さがありてカレンダー吊す

河野裕子『体力』(1997)

 

何でもないことを言っている歌だが読んでいてほっとした気持ちになる。カレンダーをめくったり、新しいカレンダーを吊るすのは大体その家の奥さんの仕事だろう。家族の好みもばらばらだから、見やすくて、予定など書き込みやすいカレンダーを吊るしている(と言いながら今年は短歌のカレンダーだった)。新しい年が家族ひとりひとりにとって穏やかな一年であるように、カレンダーを選ぶところから願う気持ちがあふれているのだ。

この歌はその吊るす高さについて言っている。この歌集からすると、この頃、二人の子供たちは大学生、高校生となり、母である作者が一番背が低かったようだ。自分より背の高い家族に合わせてちょうどよい高さに吊るすカレンダー。それはこの家に住む奥さんしかできない仕事のように感じる。

 

歳月が家族なりしと気づきたり十九の息子が家を()りゆく

 

「塔」に入った頃、四つ上の私の兄が家を出て一人で暮らすようになった。そのことを題材にして歌を詠んだとき、裕子さんに「お兄さん、家を出たの?」と神妙な顔で訊かれたことを憶えている。夫の永田さんも一緒に、兄が出て行った様子や、私の両親の様子などをきいてきた。私としては、兄が出て行って家の中が広くなったような、子供が自分ひとりになって親を独占できるような気持ちの中にいて、親の寂しさまでは深くわかっていなかった。

この歌集では、特に自立していく長男に対して、どのように接していけばいいのか気持ちを整えようとする歌がいくつもある。この歌はその最後の方にある歌。「歳月が家族なりしと気づきたり」という表現に、はっとさせられる。子供というものは自分の子育ての作品のように考えがちだが、それはずっと手元においておけるものではない。ある日気付けば、ふっと離れて自分の人生を歩み始めている子供。考えれば家族は慌しく過ぎてきた歳月のなかに濃く存在していたのだ。

 

子供らと共に暮らせし二十年短かい鬼ごつこしてゐたやうな

 

こういう歌もよくわかりしみじみとしてくる。つかまえたり、つかまえられたりして遊んでいて、あっという間に日暮れが来る。楽しかった時間がふととりのこされたような寂しさに変わる。母親は鬼の役をしていて、知らない間に、逃げていた子供たちはどこかへ行ってしまった。それでも母親は戻ってくるのをいつまでも待っているような気がする。そんなことをしているうちに子どもたちはもう大人へなろうとしている。「二十年」と言いながら「短かい」と表す。長かったようで気づけばあっという間の出来事だった。

「子離れしましょう」などと世間では簡単にいうけれど、なかなかそんなにスマートにいかないのではとこの頃おもう。気付けば私は、河野裕子の歌で追体験しつつ、子離れのイメージトレーニングをしているところがある。

 

風の道()れゆくやうに廃線のコスモスのむかうにコスモスが揺る

 

コスモスが好きだった河野裕子のコスモスの歌。「廃線」にコスモスが似合っている。「コスモス」のリフレインもよく、寂しく遠い眼差しを感じる。