武富純一『鯨の祖先』(2014)
何のことだろう、としばらく考えてあー!と気付くのが楽しい一首だ。自動改札機に切符を通した時、人の列がスムーズに進むように、切符は人間が歩くより少し早めに吐き出され、取られるのを待っている。その機械の仕組みもすごいが、そのことに気付き歌の素材にしている作者もすごい。
上句が擬人化の表現で、切符がみずから意志をもって動いているように見える。殺伐とした駅の景色が楽しく見えて、改札を通るたびにこの歌を思い出しそうだ。
水が溜まるまで少々時間がかかります連続使用はお控えください
これも結句が近づくに連れて何のことを言っているのか分かりだす。公衆トイレの注意書きをそのまま歌にしているのだ。(だいたいこのような注意書きは連続使用して水が出にくくなったあとに気付く。)作者はどうしてこれを歌にしようと思ったのだろう。トイレの空間ではない別の所へ、この言葉を置いてみたらちょっと不思議な言葉に見えてくる。
子の締めるペットボトルの栓きつくなり始めたり冷茶を注ぐ
下がりたるズボンをぐいぐい整えてくれたあの日の母の力よ
我が子を詠んだ歌と、母を思い出している歌。一首目は、息子を詠んでいるのだろうか。ある日気がつくと、自分の力では開けにくいほどの力で栓が閉まっていた。幼い頃は子どもとじゃれあって力の強さを確かめることができたが、思春期になって触れ合うこともなくなっていたのだろう。知らない間に自分を越えていく子供に、内心驚き、たのもしく思っている。
二首目ではたくましい母の姿が見えて来る。ぐいぐいと痛くなるほどズボンをあげてくれた母。当時はその力に圧倒されていたのかもしれないが、今となっては懐かしい気持ちでその場面を思い出しているのだ。
一日を我は魚と遊びしも向こうは常に命がけなり
道ゆずり会釈返され一日を生き抜く力得た思いせり
一首目は釣りをしている場面だ。一日、魚釣りをして休日を満喫した作者。しかしよく考えてみると釣られた魚は生きるか死ぬかの瀬戸際だ。自分の楽しみのために犠牲になる魚の命をあらためて考えている。二首目は、朝の通勤の様子だろうか。知らない人に道をゆずった。その人が軽く返してくれた会釈が作者の気分を明るくした。それだけで一日をがんばろうという気持ちが沸き起こってきた。現代社会の生きにくさを詠んだ歌はよく見かけるが、このような歌は案外少ないかもしれない。読んでいるほうまで気持ちのよくなる歌だ。
科学誌に鯨の祖先は河馬とあり我が空想は真実となる
歌集のタイトルにもなった「鯨の祖先」の歌。え、本当のことだろうか?と思う。インターネットで調べると何らかの答えは出て来るだろう。でも調べずにこの歌を楽しみたい。驚くのはそれが作者の空想とぴったり合っていたことである。そんな空想をしていた作者の発想が面白い。鯨と河馬だと、鯨の方が先に現れた生き物のような気もする。しかし、作者の空想は科学誌においてみごと真実だったのだ。これは子供の頃からの空想だろうか。子供の時からのひとつの夢がかなったような喜びがここにあるように思える。