梓弓はるは来にけり武士の引きかへさじと出づるたびかな

久坂玄瑞(1864年)

*武士に「もののふ」のルビ。

 

以前に(5月13日)、幕末の志士高杉晋作の辞世の歌について書いた。今回は高杉と共に吉田松陰門下の双璧といわれる久坂玄瑞の辞世の歌である。

「小説久坂玄瑞」と副題が付された古川薫『花冠の志士』(文春文庫2014年、元本は1979年刊)を読む。幕末の長州で攘夷倒幕を実現せんとして、禁門の変に若くして倒れた久坂玄瑞(1840~1864年)の生涯をたどる小説である。

古川は、下関生れの直木賞作家、まさに地元の悲劇のヒーローを美しく描いた。小説であるから、感傷や誇張もあるが、地の利を生かした史実に忠実な小説である。もとより登場人物の心中や会話は作者の創作、しかしながらあまり知られていない、道半ばで倒れた悲劇の志士のイメージのある久坂玄瑞について色々に考えさせられた。

父の感染教育のおかげ(?)で、私が時代遅れの小型右翼少年であったことは、この「日々のクオリア」にもいく度かふれたとおりだ。少年時代の愛読書の一冊に幕末の悲運の歴史を子ども向けに書いたものがあった。尊攘討幕派だけでなく佐幕派の彰義隊や白虎隊、新撰組なども含む心躍るエピソード集であった。その一章が禁門の変に倒れる久坂玄瑞を扱っていた。

1862(文久2)年以来攘夷を唱えた長州藩は倒幕の兵を挙げるが、1863(文久3)年8月18日の政変で失脚。攘夷派の七卿と共に再起を期していた矢先、池田屋事件で多数の攘夷派志士が新撰組によって殺害、それが長州の急進派を刺戟、真木和泉、来島又兵衛ら過激な一派に引きずられるように久坂玄瑞らも京都へ。同時に総勢二千を越える武装兵を急進派の三家老が率いて京都に入る。しかし、朝廷警護に当たっていた京都守護職松平容保の率いる会津、薩摩の連合軍に阻まれ、蛤門の激戦に長州藩は敗走。久坂玄瑞は御所近き鷹司邸に自刃、1864(元治元)年7月19日のことであった。玄瑞わずか24歳である。

久坂玄瑞は、吉田松陰の影響を強く受け、また松陰の妹と結婚してきわめて近い関係にあった。松陰にあった「狂」は、久坂玄瑞に受け継がれ、まさに「狂」の生涯、狂瀾怒涛のなかに燃え尽きるように短い人生を送った。悲運の敗者、そして夭逝は、わが心のヒーローの条件の多くを備えている。しかも久坂は美形だったと伝えられる。右翼少年にはたまらない魅力であった。

さらにヒーローの必要条件としての文学的素養も十分にある。漢詩、そして今様、最終的には和歌(短歌)を好んだという。古川薫の小説に引かれる久坂玄瑞の作品を紹介しておこう。

 

来訪熊城奇士廬。海防大議竟如何。廟堂豈寡宋秦檜。草莽更存林則徐。……

(来り訪づる熊城〔ゆうじょう〕奇士の廬〔いおり〕。海防の大議つひに如何。廟堂あに寡からんや宋の秦檜〔はんかい〕。草莽更に存す林則徐〔りんそくじょ〕)

 

宮部鼎蔵を熊本に訪ねた折の即興という。宮部は、後に池田屋事件に遭遇、自刃する。この七律によって玄瑞は宮部に認められた。秦檜は、宋の宰相であり、金の猛威にさらされた宋を安泰に導く存在であり、林則徐は、清の政治家、イギリスに屈しない姿勢を示した。異国船の襲来する今の朝廷に秦檜のような人物は少なく、林則徐のような人物は草莽、つまり在野民間に潜む。その草莽の一人が宮部だと言っているのだ。宮部が喜ばずにいられようか。松陰の草莽崛起の思想が、玄瑞にも浸透していることが分かる。

詩才の一端が了解できるだろう。漢詩だけでなく、玄瑞の今様もなかなかのものだという。

 

尾はなが末にしらつゆの/玉ちる野辺のあきの夜は/なに心なき虫さへも/さすが今宵はむせぶらむ

 

なるほど達者である。そして和歌(短歌)である。1861(文久元)年頃から玄瑞は国学的志向に傾き、しきりに和歌を詠みはじめたらしい。

 

今日のみと思はば春の惜しからめ我心しもいつかなしてん

桜花手折かざゝむ武士(もののふ)の鎧のうへにいろ香をみせて

ゆく川の過にし人の跡とへば丈夫猛男(ますらたけお)も涙ぐましも

香を千世に留めぬるとも武士(もののふ)のあだなる花の跡ぞ悲しき

秋の色はかはらざらめとことさらにうら悲しきは三五夜(もちのよ)の月

 

武士、もののふへのこだわりは、医師の卵だった玄瑞が、長州藩士として認められたことともかかわっている。医学生の玄瑞は坊主頭であったが、和歌を作る頃には髷を調えていたようだ。

辞世の一首は、長州の復権をはかり、ただ「立ちはだかるすべてのものを破壊して去ろうとする闘いの意志」だけが猛々しくあふれた玄瑞が、最後の京都へむかう船中で詠まれたものだという。この一首の背後には玄瑞の万感の思いがあるのだろうが、いわば型通りの志士、もののふの歌である。幕末志士の歌としては、花にこだわり優美な感じがあるのが、久坂玄瑞ならではということだろうか。

古川の小説には、妻である松陰の妹への思いとともに別の女性への恋情も記す。古川によれば、松陰の妹との間には子がなく、別の女性に一子があった。これも興味ぶかいエピソードではある。