時によりすぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめたまへ

源実朝『金槐和歌集』(1213年)

 

この5月から鎌倉の鶴岡八幡宮に附属する鶴岡文庫に2ヶ月に一度通っている。岡野弘彦先生が続けていた短歌実作講座を引き継いだからである。場所が鎌倉ということもあり、また受講者に真摯な姿勢が見えて楽しみな講座だ。

鶴岡八幡社ゆかりの教室だから、毎回拝殿に挨拶をして伺うことにしている。といっても帽子をとって軽く辞儀するくらいだが。拝殿へ続く石階段を登りながら、近年折れてしまった大公孫樹の木の根元だけが残されているのを、無惨に思いながら、ああこんなに太く大きな木だったのだと、あらためて歴史の長さや、人の生き死になどに思いが及ぶ。折れた公孫樹の下部のみを残しておくのは無粋に見えるかもしれないが、これはこれで大切な意味を持っていると私はひそかに感じている。新しい木の成長も楽しみだが、老残をさらした古木の基部が残っていることもまた重要であろう。おそらく人間においても。

公孫樹は折れて、とても人を隠すことなどできないが、階段脇に機会を窺っていた公暁の手に鎌倉幕府三代将軍源実朝が殺害されたのは、今から八百年近く前のことであった。その頃の公孫樹はどれほどの大きさがあったのだろうか。

父頼朝が鎌倉に幕府を置いた。しかし、源家の基盤がまだ確実ではない時期に頼朝が急逝する。二代目は数え年18歳の兄頼家が継ぐのだが、比企氏と北条氏との確執のうちに伊豆修善寺に幽閉、殺害された。そこで実朝が12歳であとを継ぐ。

実朝は、若くして将軍になったこともあり、母政子をはじめ北条氏の力が必要とされた。『吾妻鏡』には、「当代は、歌・鞠を以て業となし、武芸廃るるに似たり」と頼朝以来の勇士である長沼宗政の評がある。そして数え年28歳、満年齢にすれば26歳半ばで頼家の遺児、つまり甥によって悲劇の死を遂げる。

そうした短い生涯であったせいもあってか、「文弱の貴公子」、「憂愁と孤独の人」、「北条氏の傀儡」、「幕府政治に背を向け、公家文化に耽溺して和歌や蹴鞠に没頭した文弱な将軍」というところが一般的な実朝評であった。万葉調の和歌への評価や孤独の詩人といったイメージも、政治面での不遇があってこそという受け取り方が行われてきた。

しかし、このところその評価が変わりつつあるようだ。実朝研究は、文学面のみならず歴史学からも光りが当てられている。坂井孝一は中世史、あるいは渡部泰明は古典文学研究の側から、また他にも実朝の読み直しがはかられている。

その新しい光が、たとえば今日のこの一首に当てられる。『金槐和歌集』は、1213(建暦3)年後半に実朝の自選・編集した家集である。実朝初の和歌の試作が1205(元久2)年4月のことというから、その後8年で家集が編まれたことになる。実朝22歳。この年齢と作歌歴を思うと実朝の歌の才は、たいへんなものだと言うことが分かるだろう。

さて、この実朝歌のなかでもよく知られた一首である。「建暦元年七月、洪水天に漫(はびこ)り、土民愁歎せむことを思ひて、ひとり本尊に向かひ奉り、いささか祈念を致して曰く、」という詞書がある。

1211年7月、洪水が激しく、農民が歎くだろうと、一人本尊に向かって、微力ながら祈念して、この一首を詠んだということだ。洪水を鎮めるための祈りの歌だから、このように激しい、まさに呪歌のおもむきである。

「時により」、つまりその時々の状況に応じて、行きすぎると、民衆の嘆きのもとになります。八大龍王よ、雨をお止めください。

こんな内容になるだろう。八大龍王は、『法華経』に登場する八種の龍王のことだが、ここでは雨をつかさどる水神ということだろう。雨乞いの神だが、この場合は行きすぎた雨を止むように祈っている。ちょうど今年の夏の豪雨のことを思えばいいだろう。ああした豪雨の季節に、将軍がみずから天の鎮まりを求めて祈願したということだ。

ここからは渡部泰明『古典和歌入門』(岩波ジュニア新書2014年)の所説に従う。注目しておきたいのは、敬語である。八大龍王に雨止め「たまへ」と敬語を使っている。和歌(短歌)に敬語を使うことは少ない。和歌は身分を超えるから、敬語はあまり用いられないのだが、ここでは神秘の力への訴えの強さのあらわれだろう。また、八大龍王という漢語の強さ、下句の調べのもつリズム、まさに呪文のようではないか。「ハチダイリューオーアメヤメタマエ」、「雨止めたまへ」を母音だけ示すと「アエアエアアエ」となる。ぜひ声に出してみてほしい。

さらにこの歌には、ちょっとしたミステリーがある。詞書に「建暦元年七月」と明記されているのだが、この月に洪水をもたらす大雨が降った記録がないという。詞書を原文で示すと「洪水漫天、土民愁歎せむことを思て、一人奉向本尊、聊致祈念云」、つまり漢字ばかりの漢文的な表記だ。本当の洪水であったら、もっと具体的に、リアルな描写があってよいところだ。大雨は、実はなかった。

どういうことだろうか。

詞書中の「洪水天に漫り」は、『書経』の「洪水天に滔(はびこ)り」を連想させる。さらにこの7月『吾妻鏡』によれば『貞観政要』の読み合わせをはじめたことが分かる。すでに源仲章のもとで『孝経』をはじめとした漢籍を学んでいた実朝が、帝王学の教科書に到達した。帝王教育の仕上げというところだろう。「実朝の心に統治者の務めを果たす歌を詠みたい、また漢籍の表現をどこかに用いたいという思いが湧きおこっていた可能性」(坂井孝一『源実朝 「東国の王権」を夢見た将軍』講談社選書メチエ2014年)を指摘するのもなるほどと思う。

つまり、この一首は詞書ともども建暦元年7月当時の実朝の姿、その心を体現していることになる。この積極的な姿勢は、決して「文弱」でも、「憂愁」でもない。決して長い人生ではなかったが、その最後まで実朝はよき統治者であり、よき和歌の作者であろうとしていたことを、この坂井の著作や新しい実朝研究は明らかにしようとしている。