朱鷺色のマフラーを解くそのせつなわれの蒸気が空にとけゆく

久野はすみ『シネマ・ルナティック』(2013)

朱鷺色はやさしい薄桃色といえばいいだろうか。そんな色をしたマフラーをふわっと外したときに、自分の身から蒸気が空に溶け出した。この蒸気は口許から零れた冬の白い息ともとれるし、目には見えないけれど、体温が寒さのなかにでていくように蒸気が出て行ったともとれるだろう。若々しい命を感じる歌だ。「そのせつな」と瞬間的な時間をつかまえることによりはじけ出すような瑞々しさがある。

 

目がさめてまず靴下をさがしおり冬には冬の朝の愉しみ

 

このような歌もある。靴下をさがすというのはどういうことだろう。足元が冷えるので、まず一番に今日はく靴下をさがすということだろうか。もしくははいたまま眠った靴下が寝ている間に脱げてしまい、それを朝探すというのでもいいだろう。「冬には冬の朝の愉しみ」にどんな季節でも何か喜びをみつけて暮らしている作者が感じられる。案外そいういうことが生きて行く上で大切なのかもしれない。

 

両うでにダイヤ毛糸を巻かれた日、その日より母の呪縛が解けぬ

 

上の句、懐かしい情景を思い出した。編み物の手伝いをするときに腕を二本差し出し、毛糸を巻きつけて、その毛糸を母親がたぐりよせる作業があった。(何のためにしたのかわからず説明もうまくできない)毛糸がちゃんと整うまで、ずっと腕を差し出して座って待っていなければならないから大きな手錠をかけられたように囚われの身なのだ。下の句はそういう情景と、母に精神的に縛られている娘の心理を重ね合わせているのだろう。下の句はすこしオーバー気味に表し、取り合わせが面白い一首だ。

 

娘とはほのぐらき沼ふかぶかと母を沈めて平らかである

 

今度は娘の方が立場が上のような一首。「母を沈めて」というところ、母と娘の確執が冷ややかに詠まれている。母を自分の沼に沈めて平然としている娘である、ということだろうか。具体的なシーンは思いつかないが、母を苦しめても娘というのは案外と平然としている、そうやって大人になっていくというイメージでとった。

 

ストーブを消せば灯油のにおいせり人恋しさはそのように来る

 

ストーブを消した後の灯油のにおいは、せつないような懐かしさのあるにおい。「人恋しさ」はそのにおいのようにふいに来る。ふいに寂しいこころに入り込んでくる。