身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留めおかまし大和魂

吉田松陰『留魂録』(1859年)

 

高杉晋作(5月13日)、久坂玄瑞(11月4日)、松下村塾の双璧といわれた二人の歌を紹介したからには、師吉田松陰を除くわけにはいかないだろう。太平洋戦争期には忠君愛国のヒーローであった吉田松陰だが、敗戦とともに公職追放のような扱いを受け、その後また復活がはかられる。

日本近代の歴史の変転にもてあそばれるかのように毀誉褒貶、いずれにもさらされた吉田松陰だが、幕末維新期に果たした役割は大きい。没年わずか29歳、短い生涯ながら激しい行動者であり、過激な政治思想家、そしてなにより重要であったのは教育者としての松陰であろう。本州西端の小さな私塾に教えを受けた者の内の数人が時代の変革を促し、新しい社会をつくりだしたのだった。高杉、久坂、入江九一(禁門の変に自刃)、吉田稔麿(池田屋事件で新撰組に殺害される)らは倒幕、古き時代の破壊者として、木戸孝允(桂小五郎)、伊藤博文、山形有朋らは新時代の建設者として、いずれも松下村塾や松陰にかかわる者たちであった。

松陰の評価の毀誉褒貶については、古川薫が興味深いエピソードを紹介している。古川は、山口県、つまり松陰の地元出身の作家である。地の利を生かした長州にかかわる歴史小説が得意分野である。その古川の『吉田松陰』(河出文庫2014年)の「あとがき」が面白い。この小説はもともとは1983年に子ども向けに出版されたものが、今年再び文庫化された。「あとがき」に、次のようなことが書かれている。

山口県下のある小学校の校長室で、吉田松陰の座像を見た。高さ70センチほど、石膏製の黒塗りの像。長く倉庫の隅に埃をかぶっていたものを、最近運んできたと言った。よく見ると、腰の短刀は柄が折れてなくなっている。所々欠けたり、塗料がはげて石膏の地がのぞき、満身創痍だった。

古川はそれこそ「歴史を語る傷跡」であり、松陰の「人物像の栄光と受難と復活の推移」が同時に現れた貴重な証言だと解説する。戦前の山口県では、このような松陰座像がいたるところで見られた。校長室には例外なく安置されていた。多くはブロンズ、陶器や石膏製もあった。大小、おびただしい松陰像が存在していたが、敗戦とともに姿を消した。

ブロンズの場合は戦争中の金属供出で、日本軍のとぼしい弾丸になった可能性もあるが、陶器や石膏像は残っていたはずなのにそれがないのは、やはり破壊されたのだろう。傷だらけになっても、小学校の倉庫の隅に眠っていたのは稀有なことだった。

軍国主義の高まりに同調するように松陰が修身の教科書に取り上げられて、その「忠君愛国の精神」が称揚され、やがて戦争末期には特攻を松陰精神の実践と、松陰にむすびつけて戦争を賛美するかのように捉えられるようになる。それが、戦争が終わると同時に吉田松陰は追放される。松陰の彫像が、一斉に姿を消したのもそのときだった。

そして戦後の復活が訪れるのだが、その復活が、どうやら戦前の復活につながりそうな気配が、このところのこの国の時代の動きの中にはあやぶまれるところがある。古川薫の吉田松陰の評伝が復刊されるのは、来年のNHK大河ドラマの前宣伝だろうと思われるが、「忠君愛国の精神」の復活ではないことを祈る。ぜひとも新たな松陰像が期待される。

松陰の言動には、ひたすらではあるが、どこか危険性を感ずる。純粋に過ぎる印象が強い。しかしその純粋が「草莽崛起」の思想を生み、「一君万民」の平等思想を育んだ。また松陰には多くの書簡が残されている。それは松陰の思想の表現でもあり、また情報の確認でもあった。出した書簡には返信があり、それは松陰のネットワークの証しでもあった。松陰は「飛耳長目」を松下村塾の塾生に教えた。耳を飛ばし、目を長くせよとは、広く情報を集めよと言うことだ。その情報が時を過たず行動へ繋がる。これまた松陰の思想であった。松陰の旅人書簡は、幕末版インターネットに他ならない。

松陰は、安政の大獄の余波を浴びて、幕府方では脇役のつもりだったものが、いつのまにかその中心に断罪されることになる。当初は梅田雲浜との関係を問われて、それで返される予定だった。ところが、松陰みずから老中暗殺計画を告白、それが死罪を呼び込んだ。

『留魂録』は、処刑前日に書かれた松陰の門下生への遺書である。幕府役人の取調べの様子や獄中の志士の消息、松陰の心境、さらに同志への遺託が自筆でしたためられている。二通作られ、一通は刑死後間もなく萩の高杉、久坂らに送られ、もう一通は松陰と同囚だった者に托され、明治になって松陰門下生の手に渡ったという。

この一首は冒頭に「十月念五日 二十一回猛士」の署名とともに記されている。「念五日」は、二十五日。「二十(廿)」の合音ネムが「念」の音に通じるところから年月日の二〇の意に用いる。二一を念一日と表わす。「二十一回猛士」は、吉田松陰の号の一つ。夢に与えられた号だというが、「杉」(松陰生誕時の名)も「吉田」も、字を分解すると二十一になるところから名づけられた。杉=十+八+三、吉田=十+一+口+口+十、口は0としていずれも足算をすれば21になる。つまり21回の猛をなすということだ。

歌意は、まさに留魂であろう。大和魂が問題だが、松陰の激しさが死に際しても衰えをみせていないことを読みとればよいか。この留め置かれた魂を、彼の門下がひきつぎ倒幕、維新へつながった。

とはいえこの歌がもてはやされる時代が二度と来ないことを私は祈る。

『留魂録』には、死の覚悟を述べるところがある。「今日死ヲ決スルノ安心ハ四時ノ循環ニ於テ得ル所アリ。」今の平安な心は、四季の循環を考えることによって到達した。春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬に収穫を貯蔵する。秋冬が来れば、働いた成果をよろこび、酒をつくり、甘酒をこしらえ、村中に歓声が満ち溢れる。自分は三十歳で、これでは穀物がまだ花を着けず実らないのに似て、口惜しいようにみえるが、私についていうならば、そうではない。今が花咲き、結実のときなのだ。何を悲しむことがあろうか。人の寿命は決まっていない。「十歳ニシテ死スル者ハ十歳中自ラ四時アリ、二十ハ自ラ二十ノ四時アリ三十ハ三十ノ四時アリ、五十百ハ自ラ五十百ノ四時アリ、十歳ヲ以テ短トスルハ蟪蛄ヲシテ霊椿タラシメント欲スルナリ、百歳ヲ以テ長シトスルハ霊椿ヲシテ蟪蛄タラシメント欲スルナリ」、数日しか生きない夏の蟬を、何千年もの樹齢を持つ霊木にするようなものであり、霊木を夏蟬にするようなものだ。いずれも天命に達しない。

この美しい死生観は、記憶されてよい。この歌も、こうした死生観にもとずいているのだ。

 

呼びだしの声まつ外に今の世に待つべきことのなかりけるかな

七たびも生きかへりつつ夷をば攘はむこころ吾忘れめや

 

これらも『留魂録』に記され松陰の歌である。