曇るとも何かうらみん月こよひ はれを待つべき身にしあらねば

山縣大弐(1767年・江宮隆之『明治維新を創った男 山縣大貳伝)

 

山縣大弐(1725~1767)は、江戸時代中期の兵学者、尊王論者。甲斐(山梨県)の人、柳荘とも。一時幕府若年寄の大岡忠光に仕えた。後に江戸に柳荘塾を開き兵学、儒学を講じた。上州小幡藩士の受講生が多く、藩政改革にも尽力。それが後の讒訴につながる。

宝暦事件(尊王論者である竹内式部が桃園天皇近習に幕府批判を講じたことにより処罰された事件)に連座した藤井右門も大弐の塾で甲府城や江戸城攻撃の軍略を論じた。大弐は『柳子新論』を著し尊王思想を説いていたが、その過激な尊王論や甲府城、江戸城攻撃の軍略などが危険視され、小幡藩士の讒訴もあって処断に到った。明和事件である。

大弐は死罪、藤井右門磔刑(獄中死ながらも後に処断)、小幡藩織田家へも事件は波及して現藩主は蟄居、家督が相続された。

大弐の『柳子新論』(1759年)が書かれてから97年後、吉田松陰がこの書物を読んだ。松陰27歳、盲目の尊王僧宇都宮黙林の教唆による読書であったが、これが松陰の尊王思想をいっそう過激化させた。つまり倒幕へ導いたのは、大弐が『柳子新論』に述べた「一君万民」思想と「放伐論」であった。武士が政治権力を握ることが間違っている。松陰の決意が固まってゆくきっかけを大弐の思想が果たしたのだった。

明治維新の後に山縣大弐は復権した。つまり尊王討幕の創始者として、郷里には山縣神社すら設けられる。しかし日本の敗戦に大弐は戦争遂行の思想家としてまた忘れられてゆく。大弐自身の生涯も波乱に富んでいたが、死後の扱いも吉田松陰同様に、いやそれ以上に毀誉褒貶に富んでいる。松陰は、新たな読みがなされ、(来年のNHK大河ドラマは松陰の妹が主人公であるらしいというように)ドラマチックに扱われているが、その百年前にほぼ同様の思想を抱いて断罪された山縣大弐について、どれだけの人が認知しているだろうか。

江宮隆之『明治維新を創った男 山縣大貳伝』(PHP研究所2014年)は、大弐の復権を意図した小説であろう、なかなかに読みごたえがあった。ここまでの大弐の人生の紹介もおおむねこの小説に拠っている。

この大弐伝は、今までにない三つの点に特色がある。一つは、大弐の生きていた時代は、江戸幕府が最も充実していた時代であり、本気で倒幕を考えてはいなかったということを明らかにしている点、つまり思想としては倒幕に到る道筋が正しいことながら、それは今ではないということを冷静に判断していた。二つ目は、「柳子」という号が、単に六本柳の生まれだったからというだけでなく、柳沢里恭(さととも)、別名柳里恭(りゅうりきょう)、棋園(きえん)への敬意にもとづいていると主張、さらに三つ目は竹内式部との関係を明瞭にした点にある。詳しくは、本書を読んでいただきたいが、山縣大弐の生涯と思想の案内として分かりやすい一冊である。私は、はじめて大弐についての知識を得た。

大弐は多くの書物を書いているが、事件のせいでほとんどが失われている。主著とも言うべき『柳子新論』は、公刊されず、わずかの関係者の間にのみに伝えられたものゆえに、逆に後の世に残されることになったのだ。

山縣大弐の和歌は、二首だけ確認されていると江宮は述べる。その一首が、捕縛されて獄にある時期に作られたこの歌である。

大弐は、囚われたものの、実際に倒幕を企てたわけではない。無実を信じ、無罪判決を願っていた。判決の六日前、その日は8月15日、中秋の名月である。まさかこれが辞世になるとは思いもせず、この歌は作られたのだろうが、なんとも意味深長な一首になった。

この夜の中秋の名月は、どうやら雲に隠れていたようだ。今夜の月は曇っていても恨むことはない、やがて晴れを待つような私ではないのだから――そんな風流な自分ではないと言うのか、囚われの身であるというのか、あるいは死んでしまっていることの暗示か。歌の明澄な調べは、単純に囚われの身にそんな風流はないと言っているように思われるが、歌は不思議だ、この歌の「はれを待つべき身にしあらねば」=晴れを待つような身の上ではないと読めてくる。まさに辞世の短歌にふさわしく見えてくるが、どうだろう。

二首しか残っていないという大弐の和歌のもう一首は、次の作だ。

 

玉鉾の道ある国に詣で来て うてばこたふる柏手の音

 

大岡忠光の代官として上総国(千葉県)勝浦に赴任する途次、香取神宮に立ち寄った。鹿島神宮とともに武神、軍神として古代から崇敬を集めている。玉鉾は、武器である。武士道を誇る香取神宮に参詣して、神への祈りの柏手を打つ。深閑とした社に響く柏手の音が聞こえて来る。たったの二首で、大弐の作歌の力を判断することはできないが、武家として恥ずかしくない作歌力は持っていた。それはこの儀礼的な場での二首で分かる。さらに香取神宮での一首の下句には、単に儀礼歌という以上の実感が込められているように感ずる。今実際に拝殿に柏手を打つ音が聞こえて来るように感じられないだろうか。

いささか穿ちすぎかもしれないが、失われてしまっただろう大弐の和歌が残されていたとしたらという夢想に駆られる。