母の国筑紫この土我が踏むと帰るたちまち早や童なり

北原白秋『夢殿』(1939年)

*母に「おや」、童に「わらべ」のルビ。

 

日々のクオリアならぬ日々の本屋めぐりが数少ない私の楽しみの一つだが、新刊書店だけではなく中古本屋もテリトリー内にある。以前は古本屋も数店存在したのだが、近年相次いで閉店してしまった。その中古本屋に、興味深い一冊を発見した。今回は、その紹介からはじめる。

その一冊は、『北原白秋の都市計画論』(熊本出版文化会館1999年)である。著者は新藤東洋男とある。著者紹介はないが、本書の中心論文である「北原白秋とその都市計画論」は、熊本歴史科学研究会の例会(1994年4月)で報告され、後にその「会報」(46号)に掲載されたものが基になっているというから、歴史家であろう。以下の情報は、全て新藤論文に拠っている。

論文の副題には「一九二二年柳河都市計画論の構想」とあるように、1922(大正11)年の『柳河新報』という地方新聞に3回にわたって北原白秋の「都市計画論」は掲載された。これまでの白秋全集には収録されていないものだと言う(未確認)。

この白秋の「都市計画論」がなかなかに面白い。

白秋が生まれたのは福岡県山門郡沖端村(今の柳川市)である。柳河都市計画論は、白秋の故郷の都市改革である。1904(明治37)年に上京、早稲田大学英文科予科に入学、以後「五足の靴」の旅(1907年)に柳河に寄ったりはするが、故郷は、離れて憧憬する場所であり、終生愛し続けた故郷であった。とはいえ白秋生家は後に炎上、酒蔵も類焼、大打撃をこうむり、数年後には破産、一家没落の運命をたどる。複雑な思いが、白秋の胸中にあっただろう。

そんな白秋の故郷柳河への思いは、第二詩集『思ひ出』の冒頭の「わが生ひたち」につづられている。「私の郷里柳河は水郷である。さうして静かな廃市の一つである」とはじまるこの文は、柳河の風土を語り、自分の生い立ちを回想するイメージ豊かな長編散文詩のようである。そしてそのイメージの底には、廃市、荒れすたれた街、つまり退嬰的、爛れた妖しさただよう不思議なイメージがひそみ、それが魅力になっている。『桐の花』に歌われた柳河への帰省の折の作品には、そのイメージが揺曳する。

 

廃れたる園に踏み入りたんぽぽの白きを踏めば春たけにける

きりはたりはたりちやうちやう血の色の棺衣(かけぎ)織るとか悲しき機(はた)よ

狂ほしく髪かきむしり昼ひねもすロンドンの紅をひとり凝視(みつ)むる

 

どうだろう。単純な故郷賛美ではない。妖しい、ぶきみさがある。「パンの会」をはじめた白秋である。耽美、奇想が、故郷柳河への複雑な愛憎と繋がるとこのような作になる。

今日紹介した一首は、それからおよそ20年、1928(昭和3)年7月、「大阪朝日新聞」の依嘱で、版画家の恩地孝四郎と旅客機ドルニエ・メルクールで福岡の大刀洗空港から大阪へ飛ぶ。その為に柳河へ帰郷したときの歌である。

本州と九州のあいだの関門海峡を渡ると、白秋はすでに童心にかえってしまう。その気分の高揚が、このぶつりぶつりと切れた措辞にあらわれている。読者もちょっと楽しくなる。

 

雲騰(あが)り潮(うしほ)明るき海のきはうまし邪馬台(やまと)ぞ我の母国(おやぐに)

掛け竝(な)めて玉名少女が扱きのばす翁索麪(さうめん)は長きしら糸

かいつぶり橋くぐり来(こ)ぬ街堀(まちぼり)は夕凪水照(でり)けだしはげしき

 

先に揚げた『桐の花』時代の郷里を歌った作品と比べてほしい。手放しの郷土讃歌である。この間に郷土の地方新聞に掲載された「都市計画論」があった。大正時代の終り頃、関東大震災の前年である。大正デモクラシーの最盛期と考えていいだろう。

1919(大正8)年、「都市計画法」が制定されて、今でいうインフラ整備が急ピッチで広まってゆく。さらに1921(大正10)年、郡制廃止法案が決議される。実際に郡役所が廃されるのは2年後だが、柳河では、「柳河城趾が処分」という問題が発生する。山門郡の所有だった柳河城趾が城内(しろうち)村のものになる。城内村では、城趾を水田化する方針を提示、保存運動が起こり論争になっていた。それだけでなく水路の管理の問題もあり、『柳河新報』は、その論争に場を提供していた。そこに郷土から出た知識人として白秋に発言が求められたのであろう。

新藤氏の紹介に拠るかぎりでは、3回にわたる白秋の提案はかなり本格的なものである。ぜひ全文を読んでみたい。活字化が望まれる。白秋の柳河観を考える上にも重要なデータになるはずだ。ここでは、新藤氏の分析を参考にすこしだけ紹介しておこう。

「詩を作るも新都市を建設するも同じである。」「私は真の詩人であれば、真の文化的都市を建設し得ると信ずる」と立場を語る。城趾問題に対しては、水田化には反対を表明する。そして「残すべき柳河の景観」について、「柳河は飽くまでも柳河でなければなりません。

水の柳河、蛍の柳河、柳に菱に真菰に、紫菖蒲の柳河、蓮に土橋に、ケエツグリの柳河、祇園守りの柳河、チョウギリの、どろつくどんに、ピッピリヒュウの柳河、櫨紅葉に、アゲマキの柳河、鰻の柳河でなければなりません。」「古風の詩の中の柳河」であるとともに「新しい文化の母郷」が白秋の都市計画の目指す柳河の景観である。

そして「城趾を飽迄も大柳河の心臓とする」ので、城趾は水田ではなく公園化、市民のための運動場、植物園、小動物園、公会堂、図書館、美術館……古風の白い出櫓を築いて濠も整備を図る。以下、文化的新柳河構想を語る。「城趾と学校」「市としての柳河」「鉄道敷設問題」「水道と瓦斯」「水路の利用」「有楽地の選定」「工業地の選定」「市内電車」「文化的新市街の建設」これらが白秋の論じた都市計画の内容である。広範囲にわたる本格的な新都市構想であることが分かるだろう。単なる空想・妄想に終わっていない。できるだけ具体的に、実際的に考えていることが分かる。

さらに注目すべきは、3回目に論じられた「柳河首都建設論」である。百年後、二百年後の未来のことだと断りながら、「筑後川と矢部川の流域、佐賀と久留米と柳河との三角圏内が来るべき日本の首都たるべき、即ち東西両京に対する南京の地と予定してゐる」と断言している。東京、西京(京都)に対する南京=柳河という大胆な構想である。こんな構想が他に在ったのだろうか。とはいえ大日本帝国膨張期の発想であることには留意せねばなるまい。新藤も注意するように「日本帝国主義の朝鮮・台湾の植民地支配とアジア・太平洋諸地域への侵略を前提とし、それを肯定した上での」構想であった。

しかし無謀と一笑に付すには建設的な内容が含まれている。詩人の妄想ではない。こうした北原白秋の都市計画論が存在していたということは注目に値する。江戸川乱歩の『パノラマ島奇談』には、4年早い。誰でもが読める活字化が望まれる。そして歴史面からだけではない多面的でより綿密、精緻な検討があってよさそうだ。