烏口の穂尖に思ひひそめては磨ぐ日しづかに雪は降りけり

堀口捨己『堀口捨己歌集』(1980年)

*烏口に「からすぐち」、穂尖に「ほさき」、磨に「と」のルビ。

 

メタリックで精密な製図器具は、文具店でも奥まったガラスケースに飾られていた。勿論高価であるからでもあろう。小学生の頃からすでに文系男子であった私だが、実験用具と製図器具だけは別だ。とりわけメタリックな製図の道具は憧れであった。デバイス、コンパス、烏口などと聞いただけでぞくぞくする。

堀口捨己は、建築家である。1895~1984年。茶室についての考察が知られているが、日本庭園に着目、建築における「日本的」ということを考えた人だ。

堀口捨己に歌集があることを知ったのは、田中純「『どうしようもないもの』との葛藤」(『政治の美学 権力と表象』2008年)においてだった。「堀口捨己における日本・近代・建築」という副題を持つこのエッセイは、堀口の建築思想を問い、後半は堀口の短歌の解明という構成になっている。

色々興味深い論点があって、たいへん刺激を受けるエッセイである。「様式なき様式」、「非都市的なもの」、「都市の内部にあって、しかし都市から隔離された、ユートピアとしての住文化」、「『どうしようもないもの』としての『生きもの』に対する憧れと恐れ」……堀口建築思想の要点が述べられ、堀口の短歌が紹介される。

 

教室の窓近く見ゆる松の葉の細かき松葉の光れば嘆かゆ

かげろひの外面(とのも)の反射に忍び来る小暗き部屋に数学するも

 

この二首に今日掲げた「烏口」の歌を含めて、立原道造が「住宅とエッセイ」という文章に取り上げた。1936年のことだ。優れた住宅デザイナーは、「住宅する精神」と「エッセイする精神」を持っている。つまり優れたデザイナーは優れたエッセイストであり、エッセイを書ける建築家は優れた住宅デザイナーである、と。その例として堀口捨己が、この三首と共に紹介されている。

これらの短歌は、北原白秋が創刊した「ARS」に発表されたものであった。堀口は、短歌にもすでにそれなりの世界を築いていた。堀口は白秋に前回紹介した「都市計画論」があったことを知っていたであろうか。建築家の目にどう映ったか聞いて見たい気がする。

短歌であるが、これらの感覚、繊細な感性が魅力的だ。光への感受の敏感さが特色である。田中純は、堀口の短歌の「ほのかなる かそけきもの」への傾斜に注目するが、「日常茶飯の生活に触れたエッセイの感覚」は、鋭敏に光を感知する。

 

一つづゝ散る花の雨淋しきに去りがてにして窓の辺に立つ

散りて行くはかなさ故に花開くそのひとときこそ命なりけり

かそかなる光り流らふはてに来てかへりみる胸にしむもののあり

ほのかなる かそけきものも やちまたの どよみのかげに生きてあらずや

 

ヒトラー礼賛の文章を書いたりした経歴もあるが、日本的な建築、文芸の世界を目指した。ちなみに二首目「散りて行く」は、1966年宮中歌会始に召人をつとめた時の一首だそうだ。 堀口は、1984年8月18日に亡くなる。だがその死が正式に公表されたのは、11年後、生誕百年記念シンポジウムの会場でのことであった。いささか変わったところのある人物であったかもしれない。しかし、この短歌の世界、私には実に魅力的に見える。