吹く風に潔く散れ山さくら残れる花はとふ人もなし

井上甃介(野津猛男『臨床漢法医典』緒言1915年)

 

これまた季節外れの山桜だが、記憶に残ってほしい事件にかかわる。

隠岐コミューンをご存知だろうか。幕末維新期、島根県沖の隠岐島後(隠岐諸島のもっとも大きな島)において「事件」が起こる。「事件」と書いたが、見方によっては「義挙」であり、また「騒動」「暴動」であった。明治維新は、尊王攘夷の思想のもとに運ばれた変革だが、新政府は現実的な対応を求められることで変貌してゆく。その理想と変貌に翻弄されたのが隠岐であった。

隠岐は、後鳥羽院、後醍醐天皇が配流された流刑の島であり、天皇への親愛感の強い地域である。また日本海航路の風待ち港、避難港であり、外国船の接近も経験して海防の意識が高かった。尊王攘夷の思想が、神官、庄屋の青年層に広がるのもごく自然であったのかもしれない。その青年層が中心になって、維新の変革に呼応した「義挙」が実行される。

1868(明治元)年3月から5月にかけて、それまで隠岐を支配していた松江藩の役人を追い出し、島民による自治政府を設立した。詳しくは内藤正中・藤田新・中沼郁『隠岐国維新史―隠岐騒動の再評価』(山陰中央新報社1986年)を参照してほしいが、簡単に経緯を記しておこう。

1867(慶応3)年、外国船の接近と警備に関連して、島内の神官・庄屋有志から文武館設置の要請書が提出される。この神官・庄屋グループが後の「義挙」の中心になる。彼らは隠岐出身の中沼了三に学んだ青年が核になっていた。中沼了三は、崎門学派に学んだ儒者であり、京都で塾を開く尊王攘夷派、門人には西郷従道、桐野利秋など薩摩藩士が多かった。学習院講師、孝明天皇の侍講でもある。鳥羽・伏見の戦いでは新政府軍の参謀を務めている。

文武館設立は、中沼が孝明天皇の勅命により十津川に文武館を創設したことに倣うものであった。しかし、当時隠岐を支配していた松江藩は三度の要請を排除する。翌年、島民有志は徳川慶喜へ直訴を企てるが、長州軍が支配する浜田に上陸したところで王政復古を知り帰島。更に新政府の山陰道鎮撫使総監の西園寺公望から隠岐国庄屋方へ宛てられた書状を、松江藩の隠岐役所が開封していたことが発覚、これが隠岐「騒動」の発端となった。

1868(明治元)年3月15日、島後の庄屋職の会合で松江藩隠岐郡代追放を決める。そして3月19日早朝、島後・島前の住民およそ3000人が隠岐郡代の陣屋を急襲、松江藩の役人は隠岐から追放される。この際、退去する松江藩役人に対して、島民側は白米二俵と清酒一樽を贈ったという。まさに「無血革命」であり、ここに純粋に島民による自治政府が出来た。隠岐コミューンである。あのパリコミューンに3年早い。

コミューンという把握は井上清にはじまるらしい。「島民三千余人が武装蜂起して郡代を島から追放」、そのあとに「会議所(議会)及び総会所(行政府)をもち、戌兵・義勇・揮刀の三局よりなる自衛軍を組織して、小さな自治国を建設するに至った」(『日本現代史1(明治維新)』〔東京大学出版部1951〕)。つまりこれが「一種のコンミューン」だということだ。カナダのE・H・ノーマンが1943(昭和18)年に逸早くこの隠岐の事件にふれて「幼稚な自治政府」と評しているが、自治政府の形態は幼稚ながらも形を成す。しかしその自治の実態についてはそれほど明瞭には分かっていない。

4月には島民同志の一人が明治政府から、隠岐が天領である確認と自治の承認を受けようと上京するが、思うような回答が得られない。その翌月、太政官は松江藩に隠岐支配を内示、藩兵によって島後西郷の陣屋を奪回、その際島民の殺害、関係者の屋内を破壊するなど暴虐があった。「戦死者十四人、負傷者八人、入牢者十九人、逮捕者六人」(『隠岐維新史』)という。その後、長州、薩摩、因州などの仲介によって、5月16日に松江藩兵は撤退、島民による自治が一時復活したものの、11月に鳥取藩の管理下に置かれることになり、自治は事実上終了した。

その後、廃藩置県に先立って隠岐は隠岐県となり、政府任命の真木直人知県事、藤四郎判県事が派遣される。いずれも過激な尊攘派であり、隠岐は激しい廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる。その中心になったのが、自治政府の幹部であった横地、井上、中西、長谷川、忌部らであった。99在った寺はすべて廃寺、僧の居宅は廃墟に、53人の僧が還俗、10数人は逃亡したという。

そして1872(明治4)年、隠岐「騒動」首謀者及び松江藩関係者への判決処分が下された。松江藩側は禁固刑が多く厳しいものであったが、それに比べると島民側には軽いものであった。それでも横地官三郎が徒刑一年半、忌部正弘禁固一年、井上甃介、船田二郎、八幡信太、中西毅男、長谷川貫一郎が杖百、永海慎一郎、君恒久賀に杖九十、大西敏行は官一等を減じられた。しかも罪名は騒乱罪、世直し蜂起がただの騒乱罪には、納得しがたかったに違いない。ちなみ徒刑(ずけい)は、年限を定めて労働させる、今の懲役刑。杖(じょう)は、文字通り杖で罪人を打つ刑である。

今日の一首は、この隠岐「義挙」の中心になって動いた井上甃介の歌である。甃介は。1836(天保7)年生れ、隠岐「義挙」当時32歳。その後1924(大正13)年88歳まで生きた。京都で中沼了三に学び、同門の隠岐出身の中西毅男に謀り、一連の事態を主導した。杖百の刑を受けたことは既に触れた。

この歌は、出典に記してあるように野田猛男『臨床漢法医典』の「緒言」に記録された一首である。甃介は、医学を学んでいて、明治になって開業、漢方医として名医であったようだ。野田猛男は、甃介(後に「鴨湾」と号す)に教えを受けた。「緒言」には、赤痢の流行した時、一村十名の患者を受け持ち死者を出さず治癒、また盲腸炎を開腹せずに内服薬のみに快癒したとその業績が賞讃されている。そして「氏は著者と同郷の隠岐に生れ、闇斎学派朱子学の造詣深く、明治維新の前後、尊攘の大義を唱え、同志と共に隠岐の国論を指導し、廔々死生の間を往来して国事に尽くせり。事平らいで後、郷里隠岐に於いて医業に隠れ、五十年間、救生の業に従ひ、郷党の畏敬するところなり」と甃介の生涯を紹介している。

そして、この歌を「山中の残花を以て自ら居る八十老処士の面目躍如たるものを見る」と評する。「義挙」に死んだ同志もいた。そして生き延びた同志たちも老い、やがて生を終える。残った八十翁の私のもとを訪れる者もない。「蜂起の夜明け前、中西毅男、横地官三郎たちと(郡役所のある)西郷をめざして、力強い足どりで歩いていった暗い道ばたに、ひっそり咲いていた山桜を、思い出すのだった」と書くのは、この井上甃介を主人公に据えた小説『神と語って夢ならず』(松本侑子著・光文社2013年)の一文である。島崎藤村『夜明け前』の主人公の青山半蔵につながるような井上甃介の前半生であり、小説として初めてえがかれた隠岐「義挙」である。これまた是非一読を。