両端に繭をやどした綿棒は選べずにいたわたしのようだ

狩野悠佳子「ここにいるひと」

 

今年の11月に創刊された同人誌「穀物」より引いた。8人の歌人が20首ずつ歌を出している。狩野の歌はフレッシュジュースを売る仕事の様子をベースにパンチの利いた作品が多くあった。この綿棒の歌はかわいらしさのようなものが漂いながら複雑なことを言おうとしているように読める。綿棒の両端にある綿の膨らんだ部分を「繭をやどした」とまず表現する。丸く白い部分はなるほど、小さな繭を連想させる。下句は複数のもののどれかを選べなかった自分を思っている。選べなかったゆえに繭を二つもつくってしまった自分がいるということなのだろうか。「繭」というとなかにこれから違うものへ成長する命が入っていて、籠もるようなイメージがある。そのような大事なものを二つもつくってしまった自分。少し未来に対する不安のようなものも感じられる。

 

太らせたゴシック体は苦しげに「するな・議論を・お客様とは」

千円札の束ね方うまくなりレジを開けばふんわりと羽

 

ジューススタンドで働いている様子だが、一首目は、本当にこのようなマニュアルがあるのかどうかはわからない。だが、「議論をするな」ということは何か客からクレームがきた場合は、すぐに謝るということなのだろうか。「太らせた」という入り方もこのマニュアルを作った人の影が見えてくる作りになっている。また二首目ではお札を10枚ずつや50枚ずつにまとめてしまっている様子がある。まとめられたお札がレジをあけたらふわっと羽のようになるというのもおもしろく、殺伐とした仕事の場面をぱっと異世界に転換している。

 

その羽に天ひるがへし身に享くる時間せまくはなきかつばめよ

豆の袋に豆の粒みな動かざるゆふべもの食む音かすかにて

 

小原奈美の「鳥の宴」より。一首目は燕が飛んでいる様子を詠みながら「時間せまくはなきか」と疑問を投げかける。「時間がせまい」という表現がとても斬新で、時間というものが立体的に見えてくる。ゆったりと飛ぶ大きな鳥とはちがって、ひるがえりひるがえり天と地を移動する燕の姿が思い浮かぶ。また二首目は、上の句に豆の存在感がうまく出ている。ただごと歌的な感じもするが、ひとつの発見でもある。

 

にんげんも葦毛の時に到るらし草のさやげるままに老いつつ

みずからの心といえど見失う繁華街へと繋がる橋に

 

一首目は濵松哲朗「葦毛の時」より。「葦毛」とは馬の毛色のひとつで灰色がかった色をさす。「にんげんも」という入り方に人類や世界全体に対する暗示のように読んだ。そうすると下句も何かの比喩で上の句と呼応しているように思うがわからない。わからないが、上の句のフレーズが一つの時代への警告のように胸に響いてくる。

二首目は廣野翔一の「ひかりごけ」より。素直な詠みぶりだが、上の句にはっとする。自分の心なのに見失うことがあるというのは、どこか逆説的にもきこえてくる。本来なら見失いやすいもののはずであるが、こういう表現により見失ったことに対する悲哀が深まっている。「人に連れられて行く場所多くなりエクセルシオールやわらかきカフェ」も好きな一首だ。これも上の句がいい。「連れられて行く」というところに正負のどちらもの感情をも考える。下の句の固有名詞、結句の表現にも余情がある。

以下、印象深かった歌を記したい。

 

根菜を洗ひゐたれば人の来てレテ川の水差し出されたり       川野芽生

冬の井戸 こんなにつめたいまばたきにこころのとてもとおくから雪 小林朗人

手品なのは知ってた俺は鳥じゃないお金は多少ならある 行こうぜ  新上達也

のぎへんのノの字をひだりから書いてそれでも秋のことだとわかる  山階 基