思ふことね覚めの空に尽きぬらむあしたむなしきわがこころかな

 香川景樹(1768~1843)

 

「源氏物語」のような王朝のロマンへの追憶を下敷きにしながら、茫漠とした夢の名残を追っている。「ね覚め」は、寝覚め。「尽きぬらむ」は、尽きてしまったのであろう、の意。「あした」は、翌朝。青春の夢は遠く、深い喪失感をかかえた私の上にしらじらとした朝の光が容赦なく降り注いでいる。一人寝覚めの床で己の孤独を噛みしめているのだという歌。文化三年、作者は三十九歳。現代だと中年にさしかかる年齢だが、この時代の感覚は十歳ぐらい足して想像してみる必要がある。

『桂園遺稿』文化四年一月十五日の日記を見る。「当座 閑中燈」と題して二首。

思ひいづる昔の友はおほけれど影こそ見えね燈火のもと

思い出す昔の友は多いけれども、その姿にふたたび親しく接するようなことは、もうないのだという。続けてもう一首。

ともしびのかげかすかにぞ成にけるもの思ふほどによや更ぬらん

これは、一人ものを思ううちに夜が明けてしまったらしく、障子越しに差し込む朝日のために燈火が薄らいできたという歌。「よや更ぬらん」は、夜が更けてしまったのだろうか、の意。景樹の燈火の歌には佳品が多く、右の日記から引いた二首はまだ平凡なものだが、次に引く『桂園一枝』に入っている歌は、いくつもある類歌を改作した結果整ったものになっている。プロの歌人の推敲の実例として実作者には参考になるかもしれない。似たような歌なのに、見違えるものとなっているのである。

燈のかげはそむけてねたれどもさやかにのみぞ夢は見えける

かぎりなく悲しきものは燈の消てののちの寝覚なりけり

つくづくともの思ふ老の暁にねざめおくれし鳥の声かな

「燈」は一語で「ともしび」と読む。「題しらず」として三首が並ぶ。一首めは燈火を遠ざけて暗がりで見る夢は明るいというのだ。夢に出てきたのは在りし日の親しい友や、あでやかな匂いの女人であったろうか。それが次の「かぎりなく」の歌では、一転して暗闇に目を見開く現実の己の姿に立ち戻る。現代と違って月が出ていない時の夜の暗さは濃いものだったにちがいない。作者は闇を見つめている。心中に去来するのは、失ったものへの追憶と悔いの念である。右の歌は、灯火が消えているということだけを言って、続く物思いの長い時間を暗示しているところがいい。私は「さやかにのみぞ夢は見えける」という清水の流れるような日本語の響きを現代の読者にも楽しんでもらいたいと思う。