君の触れねばわれも触れえぬさみどりの水のめぐりを二人めぐりぬ

                大久保春乃『草身』(2008 年)

 

どんなに親しくても、触れられないことがある。配偶者であっても、親子であっても、決して触れてはならない心の場所がある。「さみどりの水」は、そんな心の場所ではないかと思う。

過去の出来事だったり、互いが知り合う前のことだったり、「さみどりの水」もさまざまだろう。「君」という二人称は、恋人か夫を指すのではないかと思って読んだ。「私と会う前にどんな人と付き合った?」「あなたの亡くなったお母さんって、どんな方だったの?」――知りたい気持ちはあふれそうだが、相手が自ら触れない限り訊ねてはいけない、とこの作者は自制している。その慎ましやかな気持ちこそ愛である。

とても近い心もちが詠われた一首があり、こちらも私は長く愛唱してきた。

 

問ひつめて確かめ合ひしことなくてわれらにいまだ踏まぬ雪ある

                     小島ゆかり

 

「いまだ踏まぬ雪」の白さは、「さみどりの水」と同じ清らかな美しさだ。「問ひつめて」という言葉に本当は問い詰めたい気持ちが感じられ、「いまだ踏まぬ」ことの潔さが際立つ。

「さみどりの水」の方は、「めぐりを二人めぐりぬ」という迷いがよい。触れようか触れまいか、相手を傷つけることになるのかならないのか、二人して迷う気持ちが「めぐりぬ」に表現されている。愛の形はさまざまで、いずれ劣らぬ美しさである。