「障害も個性」と軽く言ふなかれ苦しみ抜きて吾子は生きをり

渡辺幸一『イギリス』(2013年)

 

「しょうがいも/こせいとかるく/いうなかれ」で三句切れ。「くるしみぬきて/あこはいきおり」と下句でその違和感のもとになった事実をのべる。決して声高にではない。作者の歌を読んでいると、うつ気分にとらわれたり、公園で黙想することが唯一の慰めであったりする作者の姿が何度も現れて来る。「障害も個性」だ、などという耳に入りやすい言葉を流通させた人々よ、そんなことを軽々しく口にしないでほしい。私の息子は、毎日自分の障害のために苦しみながら生きているのだ…。

「障害も個性」という言葉は、誰が最初に言ったのだろうか。繰り返し目にするうちに、いつの間にか耳の底に残ってしまったようだ。この言葉には、「個性」中心主義の匂いがする。「個性」だから認めよう、違いを認めて差別するのはやめよう、という言外の呼びかけも含んでいる。いかにも正しそうな、ヒューマニスティックな響きのする言葉だ。そこのところに、障害者の家族として生きている私は、微妙に偽善的な匂いを嗅ぎ取ってしまう。つまり、この言葉は、障害の当事者に向けられた言葉ではなくて、「障害は、それを個性として認知しなくちゃいけないんですよ」という道徳的なメッセージを健常者に向けて発しているところがあるのではないか。鋭敏な作者は、当事者の家族の立場から、自分たちはそんな言葉で救われるような心構えで困難な現実を生きているわけではない、と言いたくなったのだろう。

ここには、社会が共通認識として持とうとする言葉と、個々人がそれぞれの生の現場で持つ実感というものの間に横たわる溝がある。公的に流通する言葉と個人の内面にあふれる思いをあらわす言葉とは、たいていズレているものである。短歌の言葉が社会的なメッセージとして意味を持ちはじめるのは、まさにそうした局面においてであり、そこにのっぴきならないリアリティーが生まれてくる。

いま自分と息子がここにこうして在る理由について、作者はずっと自問自答し続けてきた。

 

家族とふ苦き絆を哀しみて『花火の星』を読みつげる夜

自閉症の吾子と散歩を楽しみぬ勤めなき身の平日の午後

譬ふれば銃口ほどの冷たさで金融街に夜が来てをり

森閑と夕日傾き林檎樹が長き影引くまでを見てゐつ

 

歌いぶりは質朴で、直球の歌が多い。どれも、そうであるほかはないという追い込まれた場所から自力で立ち上がっている歌だ。作者の歌集には、頻繁に公園の樹木が登場する。どんなに苦しんでいても、作者のすぐ側には木があって、そこから生きる力のようなものを受け取っている。

ついでに書くと、東京オリンピックに向けて建物や施設の話題はにぎやかであるが、そこに植えられるべき木の話は少しも聞かない。五輪を機会に東京の街路樹と木の物語を掘り起こしてみること、さらには新しい木のある景観を生み出すことも大事なのではないかと私は思う。渡辺幸一が住むイギリス、特にロンドンなどでは、そういう木をめぐる都市の物語が年輪となって蓄積しているのではないか。いま現在の日本の郊外の街を通り過ぎて感ずることは、近年の行政が落ち葉を嫌ってやたらと枝を切り詰めることばかりしていることである。どうもあまり木を大切に扱っているようには思われない。