目には目を 一念のはてかきくもり残れる彩ぞ木賊するどし

雨宮雅子『雅歌』(1984年)

   ※「彩」に「いろ」のルビ、「木賊」に「とくさ」のルビ

 ふかく人をうらむ。あるいは、憎む。目には目を。恐ろしい言葉だ。しかし、そうやって思いを凝(こご)らせて過ごしているうちに、視野は霞み、現実のかたちは曖昧になってゆくばかりだ。その物思いから覚めて見る深緑と枯れ色の叢生は、つんつんと空にむかって尖る木賊であった。その「するどさ」は、己のもの思いの危うさを自身に突きつけ、翻って自覚させる鋭さである。

これはシリアでの人質事件のニュースが流れるなかで、本をめくっているうちに目に留まった歌である。昨年物故した作者は、昭和四年生れ。田村雅之解説の第三歌集『雅歌』の巻末にある略歴をみると、昭和三十六年の項に「離婚。父とも断絶。」とある。また、「真珠新聞記者、東京新聞文化部記者など職をいくつも変える。子供を手放し、このころから作歌を中断、教会からも遠ざかる。」とある。そののちも多病の人生であったことが年譜からわかる。

 

水仙は水のたましひ(さむ)く立てけふひと日だにひとりにあれよ

くちびるに怺へゐるものうつしみの息となしつつ白くし放つ

 

同じ一連の歌である。ぴんと張った精神のかたちが、歌の調べに託されながら形象化されている。右の一首めの「立て」は、命令形ではなくて連用形だろうが、語勢は命令形に近い響きを持つ。下句は「今日一日だに」の「だに」の屈折をはさんで、「あれよ」という強い呼びかけで結ばれる。結句の「ひとりにあれよ」という語法が危うく、そして新鮮な響きを持つ。

二首目の「唇にこらえて」いたのは、続く歌にある「目には目を」というような憎しみの言葉、呪いの言葉であったかもしれない。が、それは寒気の中に息白く吐き出されて浄化されるのである。「白くし」の「し」は、語調を整え強勢をもたらす助詞。このような格調の高い歌が、自ずから心を整え、無用な諍いと情念の浪費から人を遠ざけるのだと私は思いたい。