紅梅の花にふりおけるあわ雪は水をふくみて解けそめにけり

島木赤彦『太虚集』(大正十三年)

 私は花木では寒にひらく梅がいちばん好きなので、そろそろ梅の歌をとりあげたいと思っていた。掲出の赤彦の歌は、四句目の「水をふくみて」という平易で微細な描写が魅力的だ。結句が典型的な近代「アララギ」派の作り方で、こうやって完成してしまった型をどうするかは、これ以後の短歌の課題となったわけである。久しぶりにめくってみると、何でもない歌の風情にたちまち引き込まれる。そうして描かれている木や花や山谷をこちらもいっしょに味わいながら逍遙している。

 

山々の落葉松の芽は久しけれ漸くにして緑となりぬ

(やまやまの からまつのめは ひさしけれ ようやくにして みどりとなりぬ)

 

母音の配列をみるだけでも、一首を読んだときの心地よさの理由がわかる。ア段の音を基調にしている一、二句めの調子を、三、四句めの「し」の音で引き締め、結句のラ行音で結ぶ。やまやま、からまつ、みどり、どれも大和言葉の子供の頃から親しんだ語彙である。「ひさしけれ」とか「なりぬ」といった文語の口調が、「山々の落葉松の芽は」とか「みどりとなり」といった近代口語の描写文に用いる語彙を生かしている。掲出歌にもどって、

 

(こうばいの はなにふりおける あわゆきは みずをふくみて とけそめにけり)

 

赤彦の歌は、「紅梅の花にふりおけるあわ雪は」というように、主題となる事物の提示がくっきりとしている。近藤芳美は「歌の核」と言っていたが、一首に詠まれているものが端的にあらわれるように歌の言葉が配列されている。

スマホばかり見ていると、自分の目でものを見なくなるのではないか。すぐに写真をとる手をいったんとめて、そこの景色が自分の心身に受け止められるまで待つという事を、もう少しこころがけた方がいいのではないか。そのために近代短歌を前に静かな一時を持つということも、こころの栄養のためにはいいのではないだろうか。