寒晴れの真白き山のとんがりを奪ひてゆかな明日の心に

春日真木子『水の夢』(2015年)

 白馬連山を望む地に訪れた時の歌の章から引いた。「山のとんがり」という言葉にこころの弾みが見えて若々しい。歌集巻頭の歌は、「今日の拳」と題して、

 

百日紅剪定終へし()の先に(そら)突きあぐる拳が並ぶ

 

とある。この一連に続いて米寿を祝われる歌が来るわけだから、なかなか意気さかんと言うべきか。

 

燃えよとぞ狂へとぞいまくれなゐの薔薇が米寿の胸先へくる

 

これもなかなか大した言葉の元気で打ち返しているが、大正十五年鹿児島生まれの歌人は、晴れの場では、このぐらいのことを言ってのける胆力を持ち合わせているわけである。

 

来し方の八十八年振り向けば柱時計に翼のありき

二十二歳長寿を競ふ家猫に敬老カード曾孫が贈る

 

俗に落ちず、しかも平直な比喩が冴えている。ユーモアもある。

 

身疲れに籠り居つづく春日永 百いろ眼鏡渡されてをり

変化なきけふの倖せいつぽんの鉛筆に添ひ寝ころびてゐる

 

二首とも、歌とはこのように作るという見本のような歌だ。日常の平板さは、「百いろ眼鏡」で華やぎ、「いつぽんの鉛筆」で意味を有するものとなる。時間をすごすこころがけと言ってもいい。あるとき上野久雄は、「別に歌ができなくてもいいんですよね。ただ、いつでも歌が作れるという状態にあることが大切なんです。」と歓談のなかでのべていた。私はその言葉を胸に刻んだ。それを、いまこの文章を書きながら思い出した。