老いの書に史記をひもどくいつよりか如月いまだ立ち戻る冷え

近藤芳美『希求』(1994年)

※  如月に「きさらぎ」とルビ。

私は、「毎日新聞」に連載の『劉邦』を毎朝電車のなかで読むのを日課としていたのだが、それがもうじき終わってしまう。古代の史書の不思議は、膨大な数の死者がしばしば一行で片付けられてしまったりするところである。司馬遷は、項羽のことが好きで『史記』のなかでは破格の扱いをしたが、項羽には残虐な一面があった。秦の軍隊を破った時は、捕虜とした秦兵二十万人を穴埋めにして殺したという。いったいどうやってそれだけの数の人間を殺したのか見当もつかない。むろん古代の史書を読む時にそういうことだけに目をつけても仕方がないのであるが。高橋和巳は、この本にはありとあらゆる人間類型が出て来るから人間についての智を深めるために読むといいと言った。私もその言葉を鵜呑みにして若者に薦めている。

近藤芳美がしばしば話題にしたのは、日本の詩歌は、陶潜や杜甫を生んだ中国と違って、季節や恋の思いなどをもっぱら主題とした抒情詩として発達して来たのだが、この複雑な現代社会に生きる詩歌人はそれだけではいけない。われわれは日本の詩歌のこころやさしい抒情の伝統に安住せず、積極的に思想や政治や社会的な問題を詩の主題として取り上げ、それを詩の契機とし、また目標ともしていかなければならないということだった。そういうことを考え続けるヒントを得ようとして、身近に置いた書物のうちの一つが『史記』だったのだという。