なぜ我はひと恋ふるたび春泥のもつとも深きところをめざす

          小川真理子『母音梯形(トゥラペーズ)』(2002年)

 

恋をすると、欲深くなる。妬みやすくなる。疑心暗鬼になる。春の到来は嬉しいものなのに、雪解け水のぬかるみに足をとられるような、思わぬ変化が自分に起こる。「春泥」は、そんなことを指すのではないかと思う。

ぬかるみの深さは、思いの深さである。思いが深いほど、相手を独占したい気持ちが強くなり、誰かにとられまいと警戒してしまう。そうした自分の情念の濃さをもてあまし、この歌の作者は「私ったらどうして恋をする度に、性懲りもなくまた同じことを繰り返しているのだろう」と自問する。その問いかけは作者の知性でもあろう。

年齢を重ねれば、感情のコントロールもそこそこ上手くなり、傷つくことがないように人との距離を計ることを覚える。だから、「春泥のもつとも深きところ」は、若さであり純情なのである。

本当は、ぬかるみに足をとられまいと慎重に歩を進めるなんて、恋ではない。泥にまみれることを厭わず、むしろ泥に沈み「もつとも深きところをめざす」心こそ、恋の真骨頂ではないだろうか。