多忙の中届けくれたる娘の煮物かすかに焦げし香のまつはりて

          田附昭二『細き罅』(2015年)

 

伴侶に先立たれた作者は、八十八歳になった今も一人暮らしを続けていられる。娘さんが時々訪ねては、父親の様子を確かめ、家事を手伝っていることが、歌集から察せられる。

この歌には、娘に対する父親のたいへん濃やかな気遣いが詠われている。届けてもらった煮物に、ふとかすかな違和感があった。煮物そのものには焦げた部分はないが、「あ、焦がしたな」と父は気づく。しかし、「多忙の中」の娘が、いろいろなことをしながら煮ていて、うっかり焦げつかせてしまったんだろうな、と思うと、有り難くて愛おしくて、そんなことは決して言えない。

このへんの慎ましさが、実にいい。父と娘という関係性、微妙な距離もあるだろうか。互いに気遣い、あるところからは立ち入らない遠慮がある。それを「家族なのに水くさい」と感じる人もいるかもしれないが、私は深い情愛だと思う。

歌集には「体調の悪きをかくす饒舌に娘を笑はせる別るるまでを」という歌も収められている。心配させまいと娘を笑わせて送り出す父、煮物を焦げつかせた娘の多忙さを思いやる父……同じ年代の父親をもつ私は胸がいっぱいになってしまう。

結句の「香のまつはりて」は、まるで絹糸が一本、すうっと立ち上るような感じである。かすかに鼻腔の奥をかすめた「焦げし香」が、何とあえかに表現されていることだろう。高齢になると嗅覚が衰える人もいるが、そんな匂いを感じとった作者はまだまだお元気なのだと安心もするのだった。