店頭に並ぶ無眼の目刺にもどどっと春の怒濤が甦る

石田比呂志 『流塵集』(2008年)

 ※「甦」に「かえ」のルビ。

 爆弾低気圧などというありがたくない言葉をテレビで耳にする。その暴風雪の直下に住む北国の人々にとっては、響きも良くバクダンなんて言ってもらっては困る、というところだろう。掲出歌、なるほど目刺は目がない「無眼」の存在だ(無限ではない)。その目刺を見て「怒濤」を思うというところが、常凡の発想ではない。目玉をくり抜かれた目刺にも自由への思いはあるのである。

 

友がみな我より偉く見えぬ日に花を買い来て見する妻無し

冥界へも行ったり来たりそりゃあなた自由自在(かつてきまま)(かた)でして、ハイ

 

「友がみな」の一首目は、石川啄木の有名な歌の逆を言っている。二首めは、評判になった斎藤史の著名な歌を踏まえて作られている。江戸の狂歌にも似た闊達な諧謔を披露しながら、自分の命終を見据えて悠々と言葉で遊んでいるわけで、

 

宿無しの犬拾われて成犬となりて十年吠えて死にたり

 

というような、他愛のない、ちっぽけな存在に哀惜をもって自己の生を投影する所に作者のこころのあたたかさのようなものが滲み出ている。この多少露悪的・偽悪的なところがある姿勢も何十年のうちに板についてしまうと芸の洗練と修行の深みを増して慕わしいものとなった。こういう下降志向の文学青年の首尾一貫した生き方に共感した世代は、どこかで文芸や書物の力を信じていたのである。今後は戦争と戦後の思潮の全般を知識として持ちながら視野に入れていくように努めないと、なかなか石田のような歌への理解も届かなくなっていくのではないかと思う。が、別にそんなことを考えなくても、楽しんで読めればそれでいいか。風来坊のうそぶきさ、と石田は言うか。