ほほゑみを示す顔文字とどきゐつ鼻のあたりで改行されて

光森裕樹『鈴を産むひばり』(2010年)

もう一首並べて読んでみたい歌を引く。

 

遅れるといふ人を待つ駅前に手話でなされる喧嘩みてゐつ

 

地歌と言っていいような歌を引いた。歌のきっかけはちょっとした偶然であり、それをそのまま定着している。「ほほえみ」の顔文字は、変換の途中でノイズにさらされてしまっている。その一方で「手話でなされる喧嘩」には、ノイズの入り込む余地がなさそうだ。同時に手話でなされる喧嘩は、ひどく閉じられたコミュニケーションであるという気がする。見ている者を拒絶している。顔文字に起きた変更は、われわれの現実、常に思うままにならない現実を、一片の瑣事の提出をもって表現している。作者の興味がどこにあるかは、この二首にはっきりと示されている。メッセージが相手に届く瞬間、それから言葉が理解へと届く瞬間への注視ということである。

 

ふゆあかねさす紫水晶(アメジスト)ひとことをいへぬがためにわれら饒舌

月夜、アラビア文字のサイトにたどりつくごとく出遭ひてまた遭はざり

見えるかとゆく船をさす老人のふし多き杖なほ定まらず

 

これらの歌に言われていることは、伝達と関係の確立の困難、ということである。でも、それだけではない。次のような救いのある歌もある。

 

まむかへばいづみにふれるここちして告げるすべてが嘘にならない

オリオンを繋げてみせる指先のくるしきまでに親友なりき

青年の日はながくしてただつよくつよく噛むためだけのくちびる

 

同性なのか、異性なのかははっきりしないが、まるで相聞歌のような友情の歌である。そして一連のおしまいに置かれた「青年の日」の歌は、充分に過去の短歌作品を意識した一首であろう。こうして下読みをしておいてから、あらためて作者の謎めいた作品に向かってみると、ほぐれて来るものがあるようである。