直立せよ一行の詩 陽炎に揺れつつまさに大地さわげる

佐佐木幸綱 『直立せよ一行の詩』(昭和47年)

 この歌集の後記の冒頭に据えられた言葉。

「短歌は〈しらべ〉ではない、〈ひびき〉なのだ、という思いがしきりにする。」という言葉の若々しさ、鮮烈な衝迫力。そのように生き生きと迫って来る、まるで先の歌集『群黎』に歌われていた動物たちそのものであるような言葉のジャンプ、疾走、飛翔のすがたに目をみはる。連作のなかで一種の即興性を編み出していく手法は、モダン・ジャズなどのムープメントを作品成立の背景として、時代全体が放っていた生気のほとばしりを表現していたのではないかと思われる。

1977年に高校を卒業して大学に入学した私は、自分は乗り遅れた世代だという気がしていたものだ。その後、学園紛争世代の自己慰撫的かつ浪花節的な悪しき酔態と、欺瞞的な生き方の実例を多く目撃して、私のなかの全共闘・学園紛争神話は完全に消滅した。けれども、一方で最近になってまた思うことは、それがあの輝きの時代に生まれた作品に対する敬意を失う理由にはならないということだ。ランボーや萩原朔太郎の詩の言葉が、人間の心の中に存在するかぎりない憧憬を解放するものであったように、あの時代の短歌は、従来の短歌が持っていたもの以上のものを短歌にもとめ、短歌の領域を拡大し、短歌型式そのものを解放した。直立せよ一行の詩!と宣告できる歌人が、今われわれの前にいったいどれだけいるだろうか。短歌が一行の詩として自己存在の言碑である、というような力強さと神々しさが、われわれの前から見えなくなって久しい。何かあまりにも退嬰的なことばを見るのに疲れ果てたら、この時代の佐佐木幸綱のところまで戻ったらいいのだ。それはむろん、力を汲み出しに行くのである。