天国の求人票をまき散らし西瓜畑へ遊びに行こう

服部真里子 『行け広野へと』(2014年)

 天国は生きているうちは入れない所なので、その場所の求人票は、神様を信じる者にしか見られないのではないかと思う。そうして、その「求人票」を「まき散らし」てしまうというのは、布教のための頒布の目的なのか、単に投げ捨ててしまうだけなのか、どちらか判然としない。つまり、天国という想念を大事にしているのか、そんなことは考えるのをやめにしようと言っているのか、判然としない。むろん前者なのだろうけれども、「天国の求人票」と言われた時に、きらきらとした輝く葉っぱのようなものが、何となくイメージできる。そこに引っ張られて、下句のこれから行こうとしている西瓜畑は、天国的なあかるさに満ちているようなイメージが付与される。これが「天国の求人票のまき散らされているような」「西瓜畑へ遊びに行こう」だったら、よく解るし、私がこんなにいろいろと考えることもなかっただろう。「天国の求人票をまき散らし」と言ったために、上句と下句のつながりが不安定化して、その分読者は自分の頭の中で詩を発火させるための負荷を強いられる。ここのところで「わからない」と言って投げ出してしまう読者を、作者ははじめから相手にしていないのであるが、同じ研究会の仲間たちは、きっと読んでくれるのだろう。

 

沈黙はときに明るい箱となり蓋を開ければ枝垂れるミモザ

ガラス戸に辞書を開いて押し当てるガラスはしずかに疲れていった

赤錆の外階段に置かれいる君の知らないきみのトルソー

 

同じ一連から引いた。どれもわかりにくい歌だが、読んだ瞬間にかろうじて「わかる」感じが生まれる歌だ。かなり無理をして呑みこむのではあるが。一首目は、「沈黙」をたとえてみると、それは「ときに明るい箱」のようなものとして私には感じられる、と言っている。目に入るのはミモザの花。従来の歌の作り方だったら、しんとした明るい日差しのもとにミモザの花が咲いている、というだけのことなのだが、それを「明るい箱」と言うから、景色の前に幾何学模様の直線が重ねられて、沈黙もミモザの花も自意識の係数をかけられたものに変化してしまう。

二首目は、なんで「ガラスはしずかに疲れていった」のか、まったくわからない。でも、そう言いたい感じは、わかる。辞書は、押し付けているうちに自身の重みで何となく下に垂れ下り気味になる。それを辞書の方が「疲れた」と言わずに「ガラス」が「疲れた」と言ってガラスの方に転嫁してしまうので、意表を突かれた気がする。辞書を押し付けたのは、気まぐれからかもしれないし、ガラス窓が明るすぎるからかもしれない。何となく意味もなくそういう手遊びをしたことは、誰しも身に覚えがあるだろう。そういう意識と無意識のあわいに生ずる心の動きを詩として定着している。

三首目は、これも自意識の関数(函数と書いてみたい気がするが)を表現したもので、君(わたし)は、自分の「トルソー」が作られて外階段に置かれているのを知らない。もう少し踏み込んで解釈すると、他者の意識の中で、君(わたし)は、まちがいなく「トルソー」として、手足もなく裸で、それなのにしかも君の(美的な)本質はしっかりと把握されてしまっているのに、自分ではそのことに気づいていない。しかも「赤錆の外階段」になんかに置かれて、あんまり大事にされているわけでもなく…。少し意地が悪くて、皮肉な視線も感じられる一方で、他者の存在への怖れも同時に表現している歌だ。