遠くに近くに熖はいまはいちめんなりいづくに行くかこの八衢を

土岐善麿 『緑の斜面』(大正十三年)

「熖」は、「ほのお」。「八衢(やちまた)」は、古語で道が八方に分かれている場所のこと。関東大震災の時の歌である。「いづくに行くか」は、直訳的に読まないで、どこに行ったらいいのか、というぐらいの意味にとるとよい。家族を誘導して火事の中を脱出するまでを描いた「大正十二年九月一日」23首を巻頭に置く。一面の火事で高熱になると、風が起きて火の塊が離れたところへ飛ぶのだという。作者は明治18年浅草生まれ。よく見知った街の間を縫って避難し、生き延びることができた。このところ地震やら噴火やらのニュースが続くので、九月に回そうと思っていた原稿を引っ張り出すことにした。

 

ふり仰ぐ空いちめんにどよめきつつ熖かたむき身は真下なる

 

というような歌もある。続く小題は、次のようなものである。この連作は224首をもって構成される。

二日、赤羽橋心光院避難、友の家族、悔、玄米、焼跡、下目黒へ、夜警、八日岩槻、「一泊、避難地に戻る」、浅草等光寺跡、近親同棲、被服廠跡、「仮寓、秋より冬に亘る」、友の慘死、子犬、椅子、籠居、馬鈴薯、競馬場、白金今里、浜松町焼跡、地を下目黒に定めて、叔父、がらす玉、桜遅る、客、蹴球、郊外新居

「友の慘死」4首は、はっきり名前を出していないが、地震のどさくさにまぎれて虐殺された大杉栄らへの挽歌である。土岐善麿と大杉栄とは、大正元年10月の雑誌『近代思想』創刊以来深く交流していた。いっしょに梨を食べたこともあったのだろう。

 

ひと(つぶ)の梨のしづくにうるほせしその喉はいまは息は通はぬ

うち連れていでし散歩のそのままに遂にかへらず悼むすべなし

殺さるるいのちと知らめや幼兒は窓辺に立ちて月を仰ぎし

うしろより声をもかけず殺したるその卑怯さを語りつぐべし

 

「知らめや」は、知っていただろうか、いや、知りはしない、の意。犯人の憲兵隊長甘粕正彦は、大杉栄と伊藤野枝の夫妻だけでなく、連れていた小さい甥までも殺して井戸に投げ込んだ。辻潤が「甘粕だか豆カスだか知らないが」と、元妻である野枝への追悼文で罵倒したこの人物は、短期間の服役後に出所し、中国大陸に渡って関東軍の謀略のため暗躍して満州国建設に一役買い、中国の民衆の間に阿片を売り広めた。たしかベルトリッチの映画の最後に格好良く拳銃自殺していたが、ああいう光景には、骨がらみになった自己陶酔的な浪漫主義がある。