一秒後には冷えにけりさわらびのぼくと天使とぼくのスラング

加部洋祐『亞天使』(2015年)

 「さわらびの」という語は、あたかも「ぼく」そのものの枕詞のように働いていて色彩感がある。そこに山野に自生する「さわらび」も何となく香っている。ここに出てくる「天使」は、「ぼく」がいま対話していた「天使」で、「ぼくのスラング」のせいで「ぼくと天使と」の間は「一秒後には冷えにけり」ということになってしまったのだろう。また、この歌は、私の言葉が、発語・パロールのそばから新鮮さを失って「冷え」て行ってしまう、というような意味にもとれる。まさか「わらび」を茹でていたわけではあるまい。言葉というものの不思議さを表現しているのである。「明後日の生ごみ」という詩句が平出隆にあった。私はこの言葉を常に肝に銘じているのである。それで、「天使」と「ぼく」との間にあった親密さとは、どのようなものなのか。またこの「スラング」はどのようなものなのか。

 

(リア充は全員殺す!)鶏の首絞むるがににぎる吊革

 

これは「リア充」でない男が、バスか電車の吊革につかまりながら脳内で激語を発しているという図である。秋葉原の無差別殺傷事件を思い起こすといいかもしれない。この「リア充」(現実のリアルな生が充実した社会的な生き方をしている事)という言葉も、まさにそういう「スラング」かもしれない。この言葉を聞いた瞬間に筆者は心が冷える気がする。しかし、相手を「リア充」と呼んでいる側の者にとっては、「リアル」はすべて言語による破壊の対象となるから、そういう文脈で作られた作者の作品は、どれもアイロニーが過激であり、かつ苛烈に反公序良俗的である。

 

「人殺しどもめ!」「人殺しどもめ!」とスピーカー手に東京駅で

 

これは、言ってみればニートの逆襲のようなイメージだろうか。

 

被爆樹にいつせいに咲く手のひらのゆび吹き散らすブッシュのおなら

軍隊を始末するには芸術とロリコンと軍隊が足りない

あたまなどどこかへいつて自転車の車輪の回る首の上かな

 

作者は1980年生れ。あとがきに藤田武のところで学んだとあるが、確かにいろいろな歌をよく知っていることがわかる。詩歌の表現は、一部の先端的な表現者にとっては、己の心身を詩的言語の奔騰する場に投企することそのものであり、それは狂気とすれすれの危うい行為でもある。と同時に、そういう危うい言語を次々と発出し続けることによって生き延びる、ということもある。作者の「あとがき」を読めば、「ブッシュのおなら」も「ロリコンと軍隊が足りない」のも自殺念慮との戦いの中での命がけのユーモアだということがわかる。しかし、私は刃物で薄く切るように現実をとらえた「一秒後には冷えにけりさわらびのぼくと天使とぼくのスラング」というような繊細な鋭さのある歌に、作者の可能性を感じるのである。