世の中は夢かうつつかうつつとも夢ともしらずありてなければ

小野小町 『芸術家まんだら』(宗左近著:昭和50年刊)より

 元の本から引けばよさそうなものを、わざわざ書名を掲げたのは、むろん宗左近の本のことを紹介したいからである。小町の歌は、竹西寛子を論じた章に出てくる。竹西の小説世界に出てくる女主人公は、なぜ小町のように思慕し続ける存在になってしまったのか、と筆者は問い、自らその問いに答えてゆく論の運びが素晴らしい。

「この肉体は、ありてなし。ありてあるものは、思慕のみである。そうであってみれば、思慕しつづけることのみが、生きることの実感であり、同時に生きることの全部なのではなかろうか。だが、なぜ、その思慕は永遠なのか。」

この文章は、竹西寛子が、小町の歌を現代世界から深く受け止めて読み直したことの意味を掘り下げている。それを論ずるにあたって、宗左近はヴァレリーの次の言葉を引用する。

「正しいことは恥じながら行われなければならない。なぜならば、正しさは人を傷つけるものだから」

これに続けて宗は、「恥じらいながら生きている」女性作家として竹西寛子の名前をあげる。そうして一気に踏み込んで論じてゆく。

「ある朝、すばやい変貌をとげた自分の町をながめ、確かめられないけれど認めなければならない多くの死を反芻しながら、わたしは生まれてはじめて存在の不確かさをからだで感じ、永遠を思った」竹西寛子『往還の記』

この明哲な抑制。なぜか。さきほどあげたヴァレリーの言葉を思い出していただきたい。原爆のあとに、たえずなおも被爆しながら、生きてゆかざるをえないことの与える恥じらい。みなさんに、この恥じらいは理解しにくいのではなかろうか。(略)」

「ありてなければこそ、生きなければならぬ。その恥じらいをゆがませぬ智慧の悲しく強い正しさが、新しいのである。」

ここで筆者が「原爆のあとに、たえずなおも被爆しながら」というのは、魂の被爆という意味である。念のために言い添えておく。本文には、文学者というのは「魂の技師」のことである、というような一文もある。