田の水にうつる夏山かなたにはまだかなたには死が続いている

斉藤真伸『クラウン伍長』(2013年)

 作者は甲州の人。これは田の水鏡が散在している初夏のすがすがしい風景であるが、ここしばらくの中東やアフリカのニュースを見ていると、こんな思いにとらわれることが多い。

 

凍て空の流星群にまぎれつつクラウン伍長の火葬はつづく

怪獣のウロコの裏に甲斐の人高山良策は指紋を残す

 

作者の自注によると、高山良策は「山梨県出身の画家。ウルトラシリーズの怪獣や「大魔神」の造形を担当した。」とある。1959年生まれの私の世代は、白黒のテレビで見た「鉄人28号」や「鉄腕アトム」に始まって、「ウルトラマン」も「ウルトラセブン」もリアル・タイムで見て来た。そのかわりにガンダム世代やエヴァンゲリオン世代の熱狂は、本当の所はよくわからない。ふだんはわかったような顔をしているだけである。だから、クラウン伍長の名前も趣味的なこだわりなのだろうと思って通りすぎることになる。加藤治郎の解説の文章をみると、「クラウン伍長」も作者の師である上野久雄も、「志士」ということで一つにくくられてしまうことになるのだが、つまり「クラウン伍長」への思い入れは、青年の客気に形を与えたものということになる。壮士の出て来る漢詩を朗詠した志士たちとちがって、現代は漫画のキャラクターに自分の思いを託すわけだ。私が一緒に同人誌をやっている友人の嵯峨直樹にも「アムロ行きます」という言葉の入った歌があった。

 

ベランダにでるたびあたしつぶやくの「アムロいきます、アムロ、いきます」               嵯峨直樹

 

こんなふうに幾重にも自己激励の言葉が屈折してしまうというのは、おもしろいと言えばおもしろい。

 

サドルのみ盗み取られて自転車は東京帰りの我を迎える

水門が諏訪湖をどっと吐いている コミケになんてもういかない

 

しかし、どうも、こういう斜に構えない歌の方がいい。おそらく地方在住であることのあせりのようなものが根底にあって、過剰に「クラウン伍長」のような意匠を全体のタイトルにまで突出させることになったのだ。いっそのことローカルに徹してしまえばいいのに、サブカル・メディアの持つ名前に仮託したくなる。歌集全体としてみれば、後半の妻のことが出てくる一連に示されているように、この一冊は、地縁血縁も濃いであろう故郷の生活への精神的な帰還の物語なのであり、なかなか圭角の取れない自意識をかかえた若者が、いらだちを抱えながら四苦八苦している様子を読めばいいのではないかと私は思う。この何か悶々としておもしろくない、という風情は、思わず「友よ」と呼びかけたくなってしまう格好の悪さがあって、短歌の様式美に依拠しようとしない分損をしてはいるが、私は一定の好感を抱くものである。

 

なまよみの甲斐の西なる白根山おれの背中に風投げつける