生口島の青いレモンをさし出せば母はてのひら合わせて受ける

中津昌子 『むかれなかった林檎のために』(2015年)

                  ※「生口島」に「いくちじま」とルビ。

 

私の知人に生口島出身の人が居て、道浦母都子さんのファンだった。蒲団屋の息子だと言っていた。ただしいじめっ子だったので地元では何人かに今でもうらまれていると言っていた。島には帰れない。でも、自分が気を許した相手にはやさしかった。信州大学出身の数学の先生だったが、読書家で何事にも一家言あり、とてつもない記憶力を誇っていて平方根の表も暗記してしまっていた。でも、一度覚えたことが忘れられなくて苦しいと言っていた。それで酒癖がひどく悪かった。私の家に泊めた時に風呂場のドアを外したことがある。酔っぱらって扉の開け方がわからなくなったのだ。あとは、私の方が酔ったので放り出して先に家に帰ったことがあったが、その時に寄り道をしていたら、運悪く店を出てきた当人にまた出会ってしまった。もちろん殴られた。でも、私が悪いんだから仕方がない。

生口島の実家から届いた青い檸檬を私もいくつかいただいたことがある。彼は後年倒れて記憶をほとんど失ったと聞いている。それでやっと記憶力の地獄から解放されたのである。住んでいた部屋を埋めていた万単位の蔵書も処分された。私は自分が彼に謹呈した本を町田の古書店で見つけたから、それはまちがいない。飲み友達の読書家の先生が、自分の蔵書を処分してお金を足して施設に入れたと聞いている。

その噂を聞いてから幾年か経ったある朝、夢の中に彼が現われて、「じゃあな」と言って片手を上げて、向こうの部屋に入って行った。ああ、お別れに来たんだな、と私は思った。いつその夢を見たか書いておけばよかったのだが、忘れてしまった。いまこれを思い出して書いているということは、たぶんこの時期なのだ。ここまで書いて来たことに合う歌を歌集に見つけた。

 

ああすべてなかったことのようであり凌霄花は塀をあふれる   中津昌子

 

 

編集部より:中津昌子歌集『むかれなかった林檎のために』は、こちら↓

http://www.sunagoya.com/shop/products/detail.php?product_id=905