戦(たたかひ)にゆきてかへらぬ人思へばわが身にこもり濃(こ)き秋のはな

前川佐美雄『天平雲』(1942年)

「秋のはな」とはどんな花だろう。
秋に咲く花ですぐさま思い出すのは、菊、秋桜、金木犀、彼岸花、そして秋麒麟草や背高泡立草。
またこの「秋のはな」には「濃き」という形容詞がついている。
戦争にいってしまって帰らないひとを思うときに身体のなかにこもるように感じられる花。色濃く死をおもわせる花として、彼岸花や菊がいちばん近いようにもおもう。

この作品は1939年頃に詠まれた。「戦」は、泥沼化する中国との戦争だろう。
「わが身にこもり」とは、侵略をかさねる政策をどこかかなしんで蹲っている姿にもおもえる。
また、「濃き秋のはな」が、戦争によってかえらぬひと自身となって身体のなかで秋風にそよいでいる体感。このように独自の表現によって語られる平和への願いに、ただただ圧倒される。

しかし、『天平雲』に続けてすぐ刊行された『日本(やまと)し美(うるは)し』において、「昭和十六年十二月八日米英二国に対して宣戦の大詔喚発せらる」という第二次世界大戦の開戦を語る詞書とともに、次のような歌を発表する。

われさへや待ちわびたりし今日の日ぞ軍人(いくさびと)思(も)へば胸熱(あつ)くなる

おなじように戦争に行ったひとを詠んでいても、この歌には、「わが身にこもり濃き秋のはな」とは違う空気を感じずにはおれない。
なぜこのようなことが起こるのか。なぜこのようにしか詠めなかったのか。
そんなシンプルで根源的な問いをいつも持ちつづけていたい。

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