麦うれて細い流れが光っている わたしでない農夫が鎌研いでいる

金子きみ

光本恵子著『人生の伴侶』(2015年)より

 光本恵子のエッセイ集から引いた。光本には『金子きみ伝』という著書がある。掲出歌は、奈良に移り住んでから九四歳で没した作家、金子きみの絶筆である。「わたしでない農夫が鎌研いでいる」というのは、作者は、自分もできることなら健康な若い頃のように麦を刈ってみたいと思うからだろう。この一首前は、次の歌。

 

野も山も違う形の奈良 わたしというあの人をさがして眠る

 

これは実に驚嘆すべき、明晰な自意識のはたらいている歌ではないだろうか。「野も山も違う」というのは、これまで住み慣れた東京世田谷とは様子が違うという意味だろう。特に読者を想定した歌ではない。でも、九四歳にして「わたしというあの人をさがす」と言い得る、何物かを強くもとめてやまない精神の張りを保つということは、大変なことである。作者は、死の少し前までこうした高度な自己意識を維持しながら生きたのである。これは、老年というものについての凡百のイメージを越えているだろう。筆者の師である宮崎信義の晩年の生き方と詠歌も同様である。四首の残り二首も引いておこう。

 

蛙の声も子供らの声もない またあしたと誰に言おう 夕焼け

あれは金剛あれは生駒 死んだあなたを訪ねて夕闇に向かう川千鳥

 

さびしい歌だが、「またあしたと誰に言おう 夕焼け」と自己を客観視する視線は強い。それを支えている理知の力は、毅然としていて潔い。あとの歌の「死んだあなた」は夫のこと。「川千鳥」は自分が投影されている。「死んだあなたを訪ねて」というのは、あなたの見たものの中に、「あなた」がいるのである。金剛山とも生駒山とも、わが裡に住む「あなた」とも作者は対話しているのである。