江ノ島の海にクラゲが出始める前の海中われも泳げり

奥村晃作『青草』(2011年)

「海中」に「かいちゅう」と振り仮名がつけてある。このクラゲは、たぶん烏帽子クラゲのことである。名前の通り、胴体は大人の指の長さぐらいの烏帽子の恰好をしている。私が子供の頃は電気クラゲと呼んでいた。刺されるとぴりぴりして痛い。海の中のいらくさのようなものである。海面に浮上している時は、頭をやる気なさそうにくちゃりと横倒しにして、ぷかりぷかりと波間に浮かんでいる。これは簡単によけることができるが、時として思わぬ場所、背中や腋の下のあたりにそいつが居て、急に刺されることがある。浮き輪でまわりがよく見えないせいもある。ろくに泳げもしないのに、浮き輪なしで深いところまでは行けないので、子供の頃には何度か刺された。救護所があって、軟膏をつけてもらうと、割合に早く痛みは引いたが、これが八月のお盆を過ぎると急に増える。だから、くらげに刺されないためには、なるたけ七月から八月上旬のうちに遊びにいかなくてはならないのである。

奥村晃作の歌は、何でこんなことを歌にする必要があるのだろうと、不思議に思うような作品がある。掲出歌にもそういう気配はないではない。コトガラそのままの提示で、けんもほろろな言い方をする。どうしてか、「アララギ」系統の写生の歌の行き方、歌のうまさを求めることを拒んでいるような所がある。そこには何か微笑をさそうような愚直なこだわりの姿勢がある。作者は以前、ただごと歌という事を主張して、自分の歌の拠り所は江戸時代の歌人の小沢蘆庵であるという趣旨の本まで出した。私の思うに奥村さんの歌は、蘆庵よりは幕末の大隈言道に近いものがあるだろう。私は奥村さんには言道についての本も書いてもらいたいと思う。できればその秀歌選がほしい。どこがおもしろいのだかさっぱりわからない歌が、言道にはたくさんあるのである。けれども、おもしろい歌はおもしろい。奥村晃作の作品にもそういうところがある。