夏帽子振るこどもらよ遺影なる伯父とことはに戦闘帽かぶる  

        栗木京子『夏のうしろ』(2003年)

 

私にも「遺影なる伯父」がいる。父の長姉と結婚した人で、駆逐艦に乗っていてソロモン海域で戦死したらしい。伯母の家に、軍服姿の小さな色あせた写真が飾られていたことをまざまざと思い出す。近しい親族に戦死した人がいる、というのは、作者や私の世代が最後ではないだろうか。

この歌でまず胸を打たれるのは、「とことはに」であろう。若くして亡くなった伯父は決して年を取らないのだが、それだけではなく、いつまでも戦闘帽をかぶらされている。彼にとって――戦死者にとって――戦争は永遠に終わらないのである。その苦い悲しみが迫ってくる。

「夏帽子」はさわやかな季語で、子どもたちが無邪気に帽子を振っている様子は夏休みのひとコマのように見える。だから最初は、平和な風景と戦死者とを対比させた一首だと思った。

しかし、二度、三度読むうちに、帽子を振っている「こどもら」が実景なのかどうか、気になってくる。日本海軍の「帽振れ」は、見送る際の挨拶だった。出撃する艦艇に対して、あるいは特攻隊が出陣する際に、指揮官が「帽振れ」と号令をかけ、艦上で皆が一斉に帽子を振るのである。

二度と帰らぬ伯父を見送ったであろう「帽振れ」と、現代の「こどもら」を重ねた詠い出しと読めば、より「戦闘帽」の痛ましさが強まる。戦後七十年の今夏、子どもたちが帽子を振っている光景に、私はどうしても不吉な感じを覚えてしまう。