存在の尊厳として草光ることばとならぬ生といふべく

尾崎左永子 『星座空間』(2001年)

 夏草は言葉を持っているわけではないから、人間のように声を発することはないが、それでも堂々と自己主張をしている。その姿に「生の尊厳」を見ると作者は言っている。夏草の無名無私の輝かしさだ。蒼生と言い、青人草という。それは、人民のことである。この歌には、文語の持つ力がある。もう一首、結句に目をとめて引く。

 

骨壺の空間埋めてみつるものあらば光りあふことばなるべし

 

この歌を見たとき、骨壺のことをこんなにも美しく、死者への尊崇の念を持ちながら歌えるものかと驚嘆したのである。冒頭に引いた歌と同様に文語助動詞の「べし」が結句に用いられているのだけれども、「べし」には毅然とした凛とした響きがある。それにしても、「光りあふことば」を持っている死者とは、どんな人物なのだろうか。

敬愛する人のお骨や、お墓を前にして、人は死者と対話する。八月には、八月の死者、九月には九月の死者があって、われわれはその死者の言葉に支えられて生きている。その死者の言葉に息を吹き込み、甦らせるのは、われわれ生者の義務である。

 

いちじろく馬鈴薯の花地をおほふ丘こゆるときまた丘がみゆ

つめ草の白花ゆらす風のはて空の光となりて降り()