一山をゆるがしすぐる風のこゑしましはやがてひそまりにけり

三好達治 『詩集 覊旅十歳』(昭和17年6月刊)

 この一連は真冬に近い時期の歌なのだが、高山には夏でも冬とあまり変わりがない所もあるし、この歌一首だけを取り出して読む時には、秋の大風の時節に重ねて読んでみてもかまわないだろう。一山をゆるがして過ぎてゆく一陣の風のかたまりを、作者はまるごと受け止めて聞いている。身体の芯にぶつけるように、風の声を聞いているのである。「しましはやがてひそまりにけり」。その風が行ってしまったあと、しいんと静まり返る山の気配に身を浸していると、往時の諸々の悩みが霧消していることに気づかされたというのである。

 

おほよそは古きうれひも忘らへし旅寝ごころや山の端に臥す

 

悟りというようなものとは少し異なっている。また、明治浪漫派の旅愁や旅情の定形的な発露からも離れて、ただもの悲しい己一個の肉体というものが先立って在るというような、そんな詩境である。

戦後の一時期、三好達治の詩のリリシズムをムードだけの日本的な抒情として否定する風潮が生まれた。いまでもその余響はあるのかもしれないが、しかし、いま改めて「大阿蘇」のような詩を読み返して思う事は、作者の鋭くて正確な描写を支える表現力のすばらしさである。現代の詩歌人が忘れつつある(と私は思うのだが)、現実の自然や動植物の姿に手裏剣を投げるような気合いで、言葉のひとつひとつを貼り付けていく言語の運用力、膂力とでも言うべきものが、三好達治の詩にはある。そもそも単に抒情的であるだけの詩などというものは、ないのである。言葉に拠るからには、必ず何かのかたちを見せるものでなくてはならない。