草の実も木の実も浄き糧ならず鳥よ瞋りて空に交差せよ

柏崎驍二『北窓集』(2015年)

※「瞋」にルビ「いか」。

このところ続けて何冊も著書を出して、精彩を発している著者の歌集である。この歌集は、あの震災以後に出された詩歌の本のなかで、佐藤通雅の『昔話』とともに、もっとも信頼できるもののうちの一つであると私は思う。著者は、自分の経験に照らして、何のてらいもなく自然に自己の感慨を歌にしている。その無欲な歌の姿が、胸にひびく。

東日本の震災の経験によって問われたり試されたりしたものは、日常のなかでの思想の在り方だった。もう少しくだいて言うと、自分が他人との関わり方のなかでどういう生き方についての感覚を持っているかといことが、不断に問われた。もっと言うなら、生きていることの根拠のようなもの、自分がもっとも心を寄せているもの、それから価値を見いだしているもの・大切にしているものについての考え方を、否応なしに問われることになった。人々は、誰もが現実の厳しさを突きつけらながら、自分の言動の是非について、いちいち具体的に判別し、弁別し、決断し、断念し、受容しながら、生活というものを維持して来なければならなかった。とりわけ東北地方の、被災地に住み、また被災地に関わりの深い地域に住む人々にとっては、そうだった。

人間は情念を持った存在である。そうして日本人は、周囲の自然環境に対してその情念を密接にかかわらせる文化を育てて来たから、津波による一地域の自然と文化の壊滅は、深い傷跡を残した。その傷は簡単に癒えるものではなく、言葉は時に無力ですらある。しかし、それをあるがままに受け止めて、人は日常の中での思想を生み出しながら生きていくほかはない。そのことが<復興・再生>という浮いた言葉を経験の底から支えているのであって、スローガンは、倒れかけたり沈みかけている人を救う事はできないのである。

短歌の言葉は、贋金を洗いだして人間の気持ちのなかにある本当のところを言い当ててしまう作用を持つ。だから、私は被災地の歌人の言っていることが一番信用できると思っている。すぐれた歌人は、自分の言葉の生理に反した言葉は決して口にしないからである。