後の世を生くるあはれさ子供らの歓声秋の空に澄みたり

笹谷潤子 『夢宮』(2013年12月刊)

 秋の運動会の歌だろうか。体育の授業の声でもかまわないが、子供らの歓声が校庭から聞こえて来るのである。近くには行かずに、少し離れたところで見守っているような雰囲気を持っている歌である。帯文で三枝昂之が、「日々の事実から一歩離陸したところに拡がる詩の機微を生かしている」と書いている。この評言は、なかなか言い当てているだろう。

 

六年の女子は鈴生りその中にまたぎつしりと実の詰む果実

 

というような歌もある。いのちの塊のような「六年の女子」たち。言葉の視線が深い作者だ。

 

秋されば虫の音満つるこの邦のたましひを売ることのたやすし

 

このように「この邦のたましひを売ること」を「たやすし」と言ってしまっていいものかどうか。しかし、「たやすく」見える人なり、そういう立場の人の発言なりというものは、確かに聞こえて来るのであって、近年でも思い当たる例は、枚挙にいとまがない。

 

もう誰に食べられたつて怖くない 赤頭巾ちやん脚組み替へる

スカートに思ふさま風はらませてわたしはわたしが喩へし誰か

鉛筆のかすかな音を引きながら世界は白き紙に湧き出づ

 

近代詩に由来する自己批評の意識というものを、きちんと短歌のなかで実践できている歌人と、そういう素養をあまり持たない歌人とでは、やはり読んだ時のおもしろさがちがう。一首目の自己批評は、わるくないと思うし、二首めはややわかりにくいが、自分を放脱したかたちの自己愛の表現なのだろう。おしまいに引いた歌は、娘らしい人物が徹夜でデッサンをしている姿を見守りながら作った一連のなかにある。ここで「世界は白き紙に湧き出づ」というときに、こちらの頭の中にイメージできる空白感が何とも心地よい。作者の「夢宮」というイメージが現れる場所は、すなわち豊かな空無でもあるのだ。