過ぎてゆく一日一日をまた秋の光となりて茶の花咲けり

新免君子 『冬のダリア』(平成15年)

 作者は松江の人。1926年生れ。少女の頃に父母と旧満州より帰国した。掲出歌の「一日一日」は「ひとひひとひ」と読む。そろそろ茶の花の咲く季節である。改良品種でない普通の白い茶の花を愛でる人に、悪人や強欲な人はまずいないだろうと私は思う。花の風情は清楚であり、誠実であり、見るひとの心を映す。作者の歌も、茶の花のように堅実で地味なところがあるが、その無欲な姿に私は心をひかれる。同じ一連の歌。

 

信不信秋は何にかあきらけく言い放ちたる人のことばや

道辿り心辿りてかぎりなし茶垣に花は白くも咲きて

行き会いの雲は形を変えながら無人市場にねぎの香のする

石ころを一つ拾いて石ころのぬくとさ沁みて道ふりかえる

 

こういう歌の良さが、私のような者でも若いうちはなかなかわからなかったのだ。平淡であるけれども、平凡ではない。単純化、ということを結社の古参の先輩歌人たちが折々口にしていた。ここに示したような歌は、まさに単純化という写生の方法に立脚しながら、心の景色を描いているのである。

歌集一冊には、帰国前後の世代的な体験が、底に沈めた深い痛みを持ちながら歌われている。ただ今の一時(いっとき)のなかに過去の残響が鳴り続けているようなものとして、戦争体験というものはあり、その喪失感を負って言葉を発する時に、言葉は自ずから翳りを帯びたものとなるのである。それに身近な死者の記憶が重なって、ここでは「秋の光」も「茶の花」も自分一個のためにだけあるのではない。道辿り、心辿りてかぎりなし。こころの世界だから、これはとてもスマホで写せるような景色ではないのである。