わが戦友らいのち死ゆきし草丘のいくつを越ゆる時雨降りつつ

鈴木英夫『先陣秘帖』(平成7年刊)より

 

「戦友」に「とも」と振り仮名あり。本書の副題は、「若き軍医の見た日中戦争」。戦地での体験を誌した貴重な手記や手紙、それに写真、スケッチ等を読みやすく構成したものである。短歌はその中に少しだけ載せてある。通常は「防諜」のためと称して、一般の兵士は残らず書いたものを捨てさせられたのだが、著者は軍医将校だったためにうまく工夫して記録を持ち帰ることができた。北原白秋に師事しながら中国で従軍した点は、宮柊二と同様である。柊二とやりとりした手紙も収録されている。手記には、聞き書きも含めて戦場の実態が真摯にありのままに記録されている。

兵站の乏しい日本軍では、食料は現地調達が多く、粗食に耐えながらの行軍だった。戦闘を交えながら一度通った場所を、掲出歌のように今度は逆に戻ることもあっただろう。手記をみると、軍医は負傷兵の治療だけではなく、時には死者の認識票を確認するというような仕事もしなくてはならなかった。同姓同名の中尉が同じ作戦で戦死して、その遺体を確認した。故郷に戦死の誤報が届き、混乱が生じて新聞種となった。その記録や、亡くなった方の遺族とやりとりした手紙なども載っている。

掲出歌は、同書の「陣中詠草抄」から引いた。これは昭和十三年の作。作者は二年間の前線での激務ののち病を得て後送され、翌年に召集解除となった。この前にある一首も引く。

 

光りなきひと日の空よ夕まけて霙来るときまなかひ冥し

※「霙」に「みぞれ」、「冥」に「くら」とルビあり。

 

「夕まけて」は「夕かたまけて」。夕方になって、の意。この一連の歌の詞書には「戦ひを終へて修水北岸の荒涼たる冬営陣に入る」とある。この修水渡河戦の模様は、生還した兵士の言葉を上官の将校から聞いた手記もある。

三艘の鉄舟に分乗して敵の堤防のところまで行くと、四メートルの絶壁になった堤防があって、岸に取りつくや上から手榴弾を投げ込まれて苦戦した。よけようとすると手榴弾といっしょに川に落ちるのでどうにもならない。負傷したうえに、このままでは全滅するので戦死した者の空の水筒にすがって泳ぎ帰った、というような伝聞が、メモとして記されている。その三艘の鉄舟は帰って来なかった、ともある。堤防に上がって白兵戦の末、敵の将校と組み合ったまま修水に転げ落ちたというような負傷兵の証言もある。作者はその兵士の手当をした。

戦地からの手紙をみると、届いた本の感想が自由に述べられている。

「僕には『支那事変歌集・戦地篇』はおもしろくありませんでした。そこにはあそびが無いのです。或いは「孤独」が無いと言ってもよいでしょう。あまりにもむき出しの「戦争」が露出しているからです。/先頃ある雑誌で、ある人が戦地の作品を取り上げて「お国のためにあらゆる困難と危険に耐えて戦っていられることに感謝する」と書いているのを読みました。しかし私達は、内地の人に感謝されたり、苦労を分かってもらうために歌を作っているのではありません。ただ己の孤独を己れみずからに語りかけるために作るのです。」(昭和十四年五月三十日西村東一郎宛)。

これによって、同時代の現地にいた歌人による『支那事変歌集・戦地篇』への評価を知ることができた。貴重である。