夕刊を読みをはりしが妙高に雪降りつみし記事も親しも

堀内通孝『丘陵』(昭和十六年七月刊)

十月から十一月にかけて、各地の山々が初冠雪をすませて、それを遠望するひとの心をそよがせる。『丘陵』は、「アララギ」に入会以来十五年間の作品を集めた第一歌集である。序文が斎藤茂吉。発行されたのが対米開戦の半年前で、なかに「『呉淞クリーク』を読む」と題して、渡河戦の加納部隊に加わり戦傷した小学校の同級生を思う一連はあるが、これもおよそ戦意高揚的なものではなくて、少年時のその友人についての思い出をうたったものである。

嘱目の自然のスケッチを中心にして、ひそやかな内面の翳りを伝えようとする清潔な作風は、この時期の「アララギ」の若手に共通するものがあると私は思う。

 

山かげの雪凍りたる谿合をふきすぐる霧のしばしもやまず  (大菩薩峠)

老いづきし徳川家康がこの土地にをりし時代も泰からざりき (日本平附近)

※「時代」に「じだい」、「泰」に「やす」とルビ。

 

二首めの「時代も」の「も」に、自分たちの生きる時代への嘆きが込められているのである。

 

わが家の裏の草地に一日中させるひかりをこほしみ思ふ  (千種町起居)

バス降りて秋日かがよふ田中道松ばかりなる山に近づく  (垂井)

 

何でもない歌だが、この何でもない歌に射している光を、作者と同じようにありがたいものと感じられるかどうか。生きている時間の大切さを思わせられるのである。こういう歌のそばに、直接に他者の死と向き合う次のような歌がある。

 

うら若き人切ながり死にゆくは暁のうごく空よりさびし  (中川正寿君を憶ふ)

※「切」に「せつ」とルビ。

食べものも通らずなりし妹は日に幾時間苦しむにやあらむ  (杪秋)

 

「暁のうごく空よりさびし」という言葉は効いているだろう。秋の虫の鉦叩きが鳴く声を聞きながら、これを書いている。細身の小さな虫なのだが、遠くまでよく透る声は、自分が幼いころから変わらない。薄原があった頃に聞こえた馬追や大型のコオロギはみんな滅びてしまった。