冷や飯を湯漬けにさらっと立ち食いす午後は氷雨になるやもしれず

浜名理香 『流流(りゆうる)』(2012年)

 猛暑の夏が過ぎたと思っていたら、あっという間に立冬を迎えている。時間の速さは、本当に容赦ない。いま、一度くしゃみをした。朝早くから起きているのである。野口三千三に『風邪の効用』という本があったが、野口によれば、一回のくしゃみも「風邪」なのだそうだ。私は健康法というのが長続きしないので、野口体操もほとんどやらない。ただ誰も見ていない時に合気道と暗黒舞踏をミックスしたような自己流の体操をしたりする。習慣にしていないので、思いついた時だけだ。それでも思いついた時に体操をすると、体調が戻る気がする。

掲出歌は、いそがしい日常の合間の何気ない行為をとらえて、その日常の時間の途中に歌という一本の杭を打ち込んでいる。それは気合いのようなものであるし、また掛け声のようなところもあるもので、自己励起のうるわしい形態と言ってもいいだろう。

 

人肌にすこし足らざる徳利の底と寒夜のおんなの尻と

手仕事の針目そろいて女らの魂やすらいや光る裁ち鋏

運慶の金剛力士胸隆くそこに触れたし抱かれながら

 

「徳利」は「とっくり」と読むか。「寒夜」には、「さむよ」と振り仮名がある。二首めの「魂やすらい」には、「たま」と振り仮名がある。三首目の「隆く」には、「たか」く、と振り仮名がある。それにしても、思いもよらないことを言うものだ。今年は奇想をもとめる若手歌人の歌がだいぶ話題になったが、ここにあげたような地に足の着いた着想というものも、ずっと現代短歌が守り育てて来たものである。それにしても、三首目の「そこに触れたし」はわかるが、「抱かれながら」という結句がすごいなあ。これは、男にはなかなか言えないせりふである。一首目も、私が「おんなの尻」の歌を作ったら、いや、実際に作ったこともあるのだけれども、やっぱり何だか微妙にイヤラシイことになってしまった。「人肌にすこし足らざる徳利」というのは、自分がいま酒を酌んでいるのだろう。そうして、少しおしりが寒いと感じている。何となく和服を着ているような気配である。その方が似つかわしい歌ではある。