慰安婦のほとなる深き井戸の底ぬばたまの天黙し在りしを

水原紫苑『光儀(すがた)』(2015年)

※「黙」に「もだ」とルビ

(川野里子著『七十年の孤独 戦後短歌からの問い』所引2015年刊)

 まず川野里子の『七十年の孤独』であるが、わかりやすく簡潔に現在の短歌の置かれている状況をまとめており、そのすっきりとした筆致に、読みながら胸のつかえが取れるような爽快感があった。掲出歌は、その本の中に引用されているのである。

一応説明しておくと、「ほと」は女陰のことであり、「ぬばたまの」は「天」にかかる枕詞である。軍隊における性の捧げものとして使役された慰安婦という存在の持っている悲しさと、卑しめられ、損なわれつつも大地の霊とつながっているようなエロス的な大きさとを、森厳かつ荘重に短い一首の歌のなかに表現してみせた。何か身の毛のよだつような詩的修辞の冴えを感ずるのである。

川野の本には、山中智恵子論として、「「巫女」は巫女であるかぎり女であり、どのような普遍性に届いたとしても、それは女という向こう岸のものになってしまうのだ。」という指摘がある。川野は、掲出歌を引いたあとに続けて「水原は、自らの誕生以前の第二次世界大戦を自らの出来事として詠む。(略)過去を過去としない深い怨嗟の情が通(かよ)っている。」と論じているのだが、私はこの歌に、かつて「女歌」として読まれてきた歌の負性を払拭しながら、古代以来の「女性」の性が持つ地母神的な聖性の認識を敢然と打ち出す力強さのようなものを同時に感じもするのである。それは旧軍の秩序のなかで利用された女性の性を、そのように卑しめられながらも消えることのないエロス的な存在であった人々への粛然とした敬意と哀惜の念の表明として読んでみたい気がしたのである。