こがらしのあとの朝晴間もなくて軒うすぐらみ時雨降るなり

若山牧水 『くろ土』(伊藤一彦著『若山牧水 その親和力を読む』2015年刊所引)

 二句目「間」に「ま」と振り仮名がある。これを一読して私は、牧水が少年の頃に深く影響された香川景樹の詠風の歌だと思う。水墨画風でもある。伊藤一彦の本は、今年度の受賞本でもある。試みに分かち書きをしてみよう。

こがらしの

あとのあさばれ まもなくて、

のきうすぐらみ しぐれふるなり。

いわゆる句切れは、この歌にはない。三句目の「まもなくて」は小休止と呼ぶ。句切れに準ずる休止を持ちながら、止まらずに続いてゆく時にそう呼んでいる。

私がおもしろいと思うのは、二句目から三句目にかけて、それから四句目から五句目にかけて、句と句の間に<ひゃっくり>のような弾みがあることである。なぜか知らないが、これは微妙に躓いた感じを受ける「間」なのであって、「あとのあさばれ/まもなくて」も、「のきうすぐらみ/しぐれふるなり」も、句の切れ目は、ただ単にそれが句の切れ目であるということだけではなくて、妙に粘着的な語感で句と句がつながっていながら、同時にひどく深刻に離れているという感じを受けるのである。

「深刻に」と言ったのは、私が今たまたまそう感ずるのであって、それ以外の理由はないのだけれども、「あとのあさばれ」「まもなくて」、「のきうすぐらみ」「しぐれふるなり」の句と句の間の裂けめを情念が埋めている。それは、本来つながらないものを無理につなげているのであって、言葉が文として立ち上がる瞬間の人をおびえさせるような経験を定着したものだとも言えるだろう。牧水の歌は、そうした無垢な力の放出なのであって、どんな時でも発語の瞬間のためらいや気おくれのようなものを押しのけずに感ずることが、つまりは歌なのだということを読み手に感じさせる。

掲出歌について説明的に言うと、作者はせっかくの「朝晴れ」が、すぐに降りだした時雨によって打ち消されてしまったことを残念に思っていることになるのだが、それでは皮相な読みにしかならず、牧水は景樹のように無私の心で「こがらし」のあとの短い「朝晴」の光景に向き合っていると解釈した方がいいのではないかと私は思う。