とどかない場所あることをさびしんで掌はくりかえし首筋あらう

江戸雪『昼の夢の終わり』(平成27年、書肆侃侃房)

福岡にある書肆侃侃房が若手中心に刊行している「現代歌人シリーズ」の一冊として江戸雪の第六歌集『昼の夢の終わり』が出た。

この一首、場面としては浴室であろう。この作品の前に「てのひらで身体をそっと洗う夜を風呂場の小窓ひかりをはなつ」という作品が置かれている。人間の手は自らの肉体の表面の大半の個所には届くが、届かないところが一つある。それは自分の背中である。そのために入浴した際、背中は誰かに洗ってもらうか、それが出来ない場合は、タオルを伸ばして端を両手で持ち、たすき掛けのようにして洗う。或いは江戸が心に思え描いているのは体の表面ではなく、内臓のことかも知れない。どこか内臓の支障のある部分のような気もする。内臓は自らのものであっても自らの手で触れることができない。掌は自らの意思を具現化するツールであるが、その意志が具現化できないところがほかでもない自らの肉体の中にあることを作者は淋しむという。そして、自らの肉体の中で一番手が届きやすい箇所、即ち、首筋を何度も洗うという。

自らの肉体の中で掌が届かない場所は、同時にこの世界の中で自らの掌が届かない場所と重なる。そして、この世の中には自分の意志ではどうしようもない事があるのだという根源的悲しみに繋がってくる。そう思うと、「首筋」という言葉が生命の象徴のように思える。かつての刑罰は首を断つという手段で行われた。現在でもサウジアラビアでは公開斬首刑が行われている。この世にどうしようもない事があるのだと悟った時に、その悲しみは自らの命、即ち首を慈しむことに帰結するのであろう。

なお、歌集のタイトルは次の作品に拠る。

昼の夢の終わりのように鳴く鳥のその音階のなかにたたずむ