わが部屋の前の木のみが芽吹かない 私が影でごめんなさいね

小川佳世子 『ゆきふる』(2015年)

 ああ、よくわかるなあ、この感じ。こういう歌に解説をしても仕方がない。読んでわかる人には、ぱっとわかるだろうし、わからないからと言って、別にその人がわるいわけでもない。一応解説しておくと、要するに作者は、種々の原因によってヘコんでいるのである。前後の歌やあとがきからわかる病気のせいということもあるが、その他にも、私は相当に自分の不幸を嘆く資格を持っていると言えるのだ。でも「私が影でごめんなさいね」と、先に謝ってしまうぐらいに、作者は達観しているのである。もう一首。

 

洗顔の後にしばらくタオルあて泣く真似をしてはじめる朝

 

この歌の結句の「朝」は、七語音の字数からすると「あした」と読むのだろう。こんなふうに、自分に対して知的な距離感がとれる高度な自意識の表現は、とてもおしゃれな感じがする。こういう女性が日本国のそこここにいて、短歌のような短い詩を作ったりしながら、現実の日本語の言葉を研いでくれているのである。山本夏彦風の口吻をもってするなら、どこぞの大臣などの夢にも知らぬ境地である。

 

何処からもよそさんやからこれ以上うちなるとこもないんとちゃうか

 

病院で施術をされている時は、誰しもしばしば素裸のような、根こそぎにされている気がするものだ。その感じは、肉体や臓器の部分にとどまるものではなくて、「内側」とされるもの、言い換えるなら個体性、個別性のようなもの、さらに言い換えるなら自己の尊厳・プライドの根幹が毀損されるような印象をどうしても拭い去れないという経験である。自分の体を部分として対象化するのは、なかなかむずかしい。心身は常に全体的だからだ。

そこのところを、「何処(どこ)からもよそさんやから」とこちらから言明してしまえば、こわばった「内部」の底が抜ける。不自由をかこつ「私」がいなくなるわけだから、外来のもの(処置、情報、避け得ない人間関係、宿命)に己をゆだねようと何しようと、たいしたことではないのだ。受身でありつつ、それを逆手に取って痩せ我慢のタンカを切っている。涙ながらのユーモアである。こういう高度化した自意識の劇詩として一冊の歌集はありたい。などと、私は読者だから平気で書けるのであって、現実の作者は、重ねての病にいつ死ぬかもわからないというところなのだろうと思うと、本集をまとめた心事に思い至って涙ぐましいのである。

 

逃げきれない場所のひとつとして思う体の中というアドレスを