ヌマタラウとこゑに出だしてよびやればヒシクイ雁自らの名を知る者を見め

森岡貞香『百乳文』(1991年、砂子屋書房)
※歌集では正字使用

 

ヒシクイは日本などで冬を越す大型の雁で、沼によくいることから「沼太郎」の異名があります。そのことさえ知ればむずかしい歌ではないはずですが、どこかあいまいなのは、結句が「知る者を(こそ)見め」、つまり「見るだろう」という推量になっているところです。

人に呼ばれた鳥がその人を見るまでの一瞬を引きのばしたような……?

この歌は、短歌をつくりはじめたころ行った短歌教室で教わりました。「字余りは早口で読めば定型に収まる」という説明におどろいたことを覚えています。

短歌に大切なのは、音数が合っていることよりも定型の“感じ”があることだというセンスが、破調でも読みやすい歌をつくる歌人にはそなわっているのでしょう。

花山多佳子さんの著書『森岡貞香の秀歌』(砂子屋書房)に、「戦後一般に多い破調は、内容が多いための字余りだが、森岡の歌は内容、事がらはむしろ乏しく、内容がはみ出していくタイプの破調ではない」とあります。

上の歌の内容も、鳥に呼びかけたらその鳥は、というほどのことにすぎません。

音声であるため「沼太郎」の表記をカタカナにしたことも、鳥が「自らの名」を認識しているという前提も、作者の主観です。主観に忠実であろうとする心の動き、叙述の正確さへの意志。そのあらわれのひとつが、破調であると見ることができます。