途中にて乗換の電車なくなりしに、 /泣かうかと思ひき。 /雨も降りてゐき。

石川啄木『悲しき玩具』(1912年)

※ 「乗換」に「のりかへ」とルビ、「/」は改行

 

小池光さんの『石川啄木の百首』(ふらんす堂)で取りあげられている歌です。解説に「近代短歌の第一人者は誰がみても斎藤茂吉であろうけれど、茂吉の歌にはついになかったものを啄木の短歌は残した」とあります。

斎藤茂吉やら与謝野晶子やらは、“文学を読もう”という気持ちがないと、なかなか読みすすめられません。“文学”をスキップしても読める短歌は、戦前では啄木作品のみといってよいのではないでしょうか。

上の歌を文学として読みたければ、初句の「途中にて」における省略とか(夜勤帰りの、でしょう)、「思ひき」「ゐき」の押韻とかに技を見いだせばよいわけですが、なかでも「泣かうかと」には、ん? と引っかかります。

「泣きたいと」ではない? なぜ「泣かうかと」思案?

「『一握の砂』で啄木は何度も泣いてみせた」と小池さんは述べます。その冒頭歌〈東海の小島の磯の白砂[しらすな]に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる〉を見て、だいたい啄木が嫌いになったりします。情けなさ全開のようでいて、カメラの上空から「われ」へのズームインを追うと、そこに「泣いてみせ」ている人物が配置されているのだと合点がゆきます。

その演技性が掲出歌の「泣かうかと」にもあらわれていて、「雨」すら心の涙を具現化した演出に見えかねない……そうしたあやうさにこそ、文学があります。

泣いて“みせた”という小池さんの言い回しにも、ひと癖ありますね。さりげないツッコミ。啄木との対話、たのしそうです。