いびつなる青きくわりんを黄にかふるおほいなる手よ悲しみの手よ

坂井修一『望楼の春』(2009年)

カリンは中国原産のバラ科の落葉樹。榠樝または花梨と書く。
花櫚と書くマメ科の高木は同名の異種。諏訪地方の名産でカリンと呼ばれているのはマルメロのことで、これも別の植物。
晩春、新葉と同時に、つややかで芳香のある淡紅色の花を咲かせる。
秋、いびつな青林檎のように生る実は、晩秋に黄熟する。
硬くて酸味がつよく生食にはむかないが、砂糖漬けにしたり果実酒にしたりする。
黄熟した実を部屋においておくと、ながいあいだあまい香りをたのしませてくれる。

青いカリンの実を、黄色に変えるのは誰の手だろう。
神の手、か。否、その手とは時のながれ、そのもののことだろう。
そしてそれを、悲しみの手、ととらえるところに主人公の苦い存念がある。

日本という国、そして主人公の身辺は今これまでになく過酷で荒廃した様相をあらわにしている。
近代から連綿とながれる時間の、地滑りのようなその傾斜に翻弄される日日。
そんな容赦のない時のながれが一方で、空の片隅にかぐわしいカリンを実らせている。
黄色く色づいたその楕円の実を、まぶしく、さびしく主人公はみつめるのだ。

  わかき妻をさなき吾子のやはらかき肌(はだへ)なりしか夢に触れしは

同じ歌集にはこんな一首もある。
個人にながれる時間、社会にながれる時間、そして自然界にながれる時間。
時のながれの様様な表情をみつめながら、きびしい「今」を生き抜く主人公のかなしみは、晩秋の空気のようにかぐわしく冷えている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です